私評 郤倹 ゲキケン

正史から判断するに、郤倹の治世は三国志演義で出てくるような悪徳官吏のようなものであったと推察できる。反乱軍によって郤倹は殺されてしまうが、息子の郤揖は殺されておらず、よって郤正は後に劉禅の秘書になれたのである。

ここで、何故郤揖・郤正親子は(当時郤正が生まれていたかは不明だが)郤倹と共に巻き添えで殺されなかったのかという疑問が残る。少なくとも郤倹は民衆の怒り(というか反乱軍)に殺されたわけで、その後も郤揖が蜀で働けたのは意外に思う。常日頃から親子の仲が悪かったのだろうか?

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