Abstract about the Inwardness in Race-relations 〜トリの詩〜

1.序

 遠く遥か中原を離れた南蛮が今回のレジュメの舞台となります。魏・呉・蜀の野望とは無縁のように思えた南蛮の地。しかし、呉への報復戦に敗れて有終の美を飾ることが出来ずに劉備が死に、蜀が矛先を転じて魏と戦い始めるまでの凪のような、歴史の流れが変わる間の静寂。ここに南蛮は登場するのです。
 225年、蜀の丞相諸葛亮は大軍を率いて南蛮を制圧します。蜀の武装兵数万が、少数民族を各個撃破したのが南征の実態だと考えられています。まるで歳の違う大人と子どもの戦いです。しかし三国志演義での描写は全然違います!
 三国志演義は娯楽性を高めるため、南蛮ストーリーを大きく脚色しました。皆が見たいのは蜀の活躍。正史で魏や呉に負けている蜀をフォローするためにも、南蛮編はうってつけでした。このレジュメでは、演義での南蛮の扱われ方や、南蛮ストーリーに隠された秘密を考えていきたいと思っています。いろいろと隠された、中華世界による南蛮の“symbolization”を見つけていきましょう。ちなみに、これは簡略版で、いずれこれの長編も書く予定です。

2.三国志演義における南蛮の位置付け

 南蛮ストーリーは完全にオリジナルということからもわかるように、三国志演義の中でも特殊な内容となっている。三国志演義の発展形態から南蛮ストーリーを位置付けるとき、特徴的な部分を列挙する。

@三国志演義の前段階と言われる三国志平話には董荼那や兀突骨といった人物は全く登場しない。
  →三国志の原型には孟獲以外の要素は存在しない。

A嘉靖年間に出版された三国志演義には「董荼奴」と表記されているが、現代流布している三国志演義(毛本)は「董荼那」と表記されている。
  →名前が一定しなかったのは、登場してから日が浅かったから?

B諸葛亮は兀突骨攻めのときに「地雷」を用いている。
  →中国で火薬が戦争に使われたのは唐の天佑年間(904前後)であり、敵を焼き殺すものだった。燃焼性でなく爆発性に注目し、中に鉄丸をつめて殺傷力を増した火器が発明されたのは北宋末年(1100頃)である。
一方、唐の李商隠(812〜856)の詩の中に、「或いは張飛の胡を謔り、或いはケ艾の吃を笑う」というフレーズがある。艾のどもりはともかく、正史に張飛のヒゲの話は載っていないことから、民間伝承としての三国志の原型はすでに唐代にはできていたことになる。さらに、三国志演義のエピソードの多くは北宋の司馬光(1019〜86)が表した資治通鑑に基づくものであるが、ここにも南蛮は登場しない。

 これらより考えられることは、“南蛮ストーリーは、元代以降、三国志演義が成立する本当に直前になって挿入されたストーリーであり、原始三国志演義との接点は全く無い”ということである。

3.何故南蛮か?

嘉靖本の序文において、三国志演義について「前の元の時代には民間に伝わる歴史をもとに『評話』を作ったが、誤りも多く野卑に失していたため教養人はこれを嫌った。そこで羅貫中は史実を慎重に取捨選択して・・(概略)」と解説している。「南蛮の話のどこが史実なのか」と、突っ込みどころ満載である。

 しかし、それを補足するような説明もある。すなわち、「『春秋』をはじめとする歴史書は難解で、そこにこめられた『義』も一般人にはわかりにくい。そのため歴史書は人々に顧みられなくなり、そこに記された歴史的事実も忘れ去られようとしている」という部分である。

 作者グループは民間伝承の荒唐無稽さを嘆きつつも、逆におかたい文章にして人々に嫌われることをも恐れていたのである。こう考えると、三国志演義は当初は民衆の啓蒙目的に作られた作品であると考えられる。そこで出てきたのが南蛮ストーリーであった。
 「諸葛亮の南蛮制圧」は歴史的事実であるから使用可能。

  →七縦七禽をふくらませて、オリジナルストーリーをつくろう

   →読者受けを狙うなら、流行っている神魔小説のノリにしよう

という過程を経て南蛮ストーリーが作られたのではなかろうか。

4.南蛮のイメージ

作者グループが南蛮ストーリーを創作するとき、彼らは南蛮の知識があったのだろうか。答えは「ほぼ無い」といったところだろう。彼らの中の「南蛮」は蜀の南部地域ではなく、中国大陸の南部地域だったのである。これは彼らの無知ではなく、当時の中国人全体の共通認識だったのではなかろうか。

 嘉靖年間に出版競争が行われていたのは南京や福建であった。羅貫中の出身地(太原説・東原説・杭州説がある)にしても、いずれも東中国である。彼らにとって中原以西は混同された土地だったに違いない。その証拠か、孟獲の配下の董荼那は五渓洞主と紹介されている。五渓(五谿とも書く)とは武陵、つまり南荊州にいた蛮族のことなのである。中華人の混同振りが想像できる。よって、南蛮ストーリーには、中華人が知るところの「蛮族」的イメージがすべて凝縮されていると考えてしかるべきだろう。

5.夏 影

神魔小説に欠かせない要素は何であろうと考えたとき、五行説が浮かび上がる。五行説とはこの世は木・火・土・金・水の支配元素からなるという考え方である。この5要素にあらゆる事象をあてはめているのである。
 ここで奇妙な符合が生じた。正史で諸葛亮が南蛮征討に出かけたのが夏。夏の支配元素は火である。また、南蛮、すなわち「南」の支配元素も火。ここから南蛮と五行説を結びつけたストーリーが作られることになったのではないだろうか。

 南蛮=火で統一されたとき、必然的に孟獲も火の象徴となる。彼の乗る馬は火をイメージする赤兎馬である。さらに、火を支配する神は祝融であるが、太陽神(≒炎帝)は女性であることから、祝融は孟獲の夫人となったのである(彼女が乗る馬も赤兎馬である)。

6.祝融と太陽の連鎖

 南蛮のモチーフ祝融は『山海経』で人面蛇身とされ、龍に乗っているとされている。長江流域では古来より龍の信仰があり、四川省でも水生生物に神性を見出していた。すなわち、祝融は水神・龍(蛇)に通じるのである。

一方、祝融は火の神であり、太陽神にもつながっている。ここで四川省近辺の太陽神崇拝を観察すると興味深い生き物が出てくる。それはカラスである。『山海経』には「太陽は烏に背負われている」という表現があり、実際に蜀の三星堆遺跡からは太陽を運ぶ烏の像が出土している。烏は夕方に群れをなして直線に飛ぶことから太陽に結び付けられたものだろう。また、長江中〜下流域にかけては烏は水とも関連付けられている。早稲田大学三国志研究会のサイトで紺碧の空様が書いたレジュメに、水神としての甘寧と烏の関係を扱ったものがあったので、それを参考にされたい。

 つまり、「南蛮・祝融・火」という概念から派生して「水・蛇(龍)・烏」というイメージが飛び出したわけである。

7.もう一つの南蛮

三国志演義では、孟獲は南蛮王を自称しているが、実はもう一つ出てくる国がある。それが国王兀突骨が治める烏戈国である。兀突骨は五穀を食べずに生きた蛇獣を食べたり、体には鱗が生えて刀も矢も突き通すことができなかったり、左右のあばらの下に鱗を剥き出しにしていたり、極めつけは眼から怪しげな光を放つなど、明らかに人間離れしている。しかし、上記から判断すれば答えは一つ。兀突骨は人間ではないのである。

いま兀突骨のモチーフを人外の生物と仮定したが、これは神魔小説の性質を持つ西遊記や封神演義にも見られる。では、彼は何の化身なのだろうか?

8.トリの詩

前述の通り、南蛮のもう1つのモチーフは水・蛇・烏である。彼が治める国の名前が「烏戈国」というのは、南方の「烏」的要素を意識した命名だと考えられる。また、正史で孟獲がいたあたりは今で言う彝族・苗族の居住区であるが、苗族の伝承に出てくる神の中に「金戈・銀戈(日月の神)」というのがいる。「戈」にも何らかの意味があるのかもしれないが、これはまだ未解決である。
兀突骨という名前についても、字義としては「たんにデカい奴」という意味らしいが、「兀 wu(第4声)」と「烏 wu(第1声)」は発音が似ている(ただし、これは現代の話だが)ので音韻をかけたのかもしれない。

残る要素は「蛇」であるが、ここで兀突骨の特徴をもう一度考え直したい。

@五穀を食べずに生きた蛇や獣を食べる

A体には鱗が生えている

B左右のあばらの下に鱗が剥き出し

C眼から怪しげな光を放つ

いずれも蛇の性質に近いものではないだろうか。Bに関しては、蛇のあばら付近には手足の名残りの鱗が突起状に生えていることを示している。Cに関しては爬虫類にはてかりがあることからの類推であろう(単に「眼からビーム」の化け物だということを言いたかっただけかもしれないが)。また、兀突骨が諸葛亮の地雷で爆死したのは盤蛇谷である。

 「水」の要素に関しても、彼の率いる藤甲軍が蜀と最初に対峙したのは桃花水(非常に神秘的な名前であり、兀突骨の神性或いは魔性を表している)であり、藤甲軍は水に浮いた。部下の名前も奚泥といった具合に水に関係のある名前である(実際は水以外に土の支配元素も関係していると思うのだが、今は割愛する)。

9.総括

 三国志演義の南蛮ストーリーは壮大なオリジナルストーリーである。羅貫中をはじめとする作者グループは南蛮をイメージするときに、自分たちが持つ蛮族の知識を総結集した。まさに、民間伝承あり神魔妖怪の類ありの無茶苦茶な展開である。しかし、そこに我々は中華人の見る蛮族観や民間伝承の形を見出すことができるのではないだろうか。

このレジュメでは南蛮ストーリーの中から、「祝融」というキーワードに関連する内容のみ取り上げたが、大豪院邪鬼兄が発見した孟優・孟節伝説や、関索の挿入、火・水以外の五行思想の相関など、さまざまな要素が散りばめられている。隠されたエッセンスの抽出というのも、文学の楽しみ方ではないだろうか。

10.参考文献
 

「正史三国志蜀書」 井波律子 ちくま学芸文庫
「新刊通俗演義三国志史傳」刻印本 忘れました(爆) 中央図書館のB2にあった本です…
「三国志演義」 立間祥介 平凡社
「西遊記〜トリックワールド探訪〜」 中野美代子 岩波新書
「龍の文明・太陽の文明」 安田喜憲 PHP新書
「中国科学技術史」 杜石然ら 東京大学出版会
「三国志演義の世界」 金文京 東方書店
「『三国志演義』版本の研究」 中川諭 汲古書院
「三星堆・中国古代文明の謎」 徐朝龍 大修館書店
「古代中国の地方文化」 白鳥芳郎 六興出版
「花関索伝の研究」 古屋昭弘ら 汲古書院
「四川盆地を行く」 内藤利信 ぎょうせい
「三国志外伝」 岡崎由美ら 徳間書店
「三国志平話」 中川諭 光栄

というか、いろいろありすぎて、もう書けません(汗)。

 

補.自己批判(例会時に出された指摘をもとに)

@「水」の連想への発展が飛躍しすぎ。
A第4段落は、話の流れを切る段落である。最後に回したほうが良い。
B祝融=蛇神説の補足が足りない。
C「兀」の解釈の仕方は、単に蛮族的イメージを出したかっただけでは?
D「義」の字の意味の取り方は、「義理の義」ではなく「字義の義」の意味では?
E「戈」に関する論理矛盾(前半部でイメージによる蛮族といっているのに後半で苗族の神日戈、月戈との関連性についてふれている)
F「原始三国志演義」ではなく「物語」のほうがよい(誤解を招く表現)。
G三国志演義の神魔小説性? そんなに強いだろうか。
H董荼那の字が違うのは、成立時期云々というより、ただのミス。三国志平話も誤字だらけ。

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