秘蜀分析 第1回 復刻版

魏延(文長) …孔明中心主義の犠牲となった哀れなる操り人形(マリオネット)…

1. 目的

 なんだか知りませんがいつの間にかシリーズになってしまった秘蜀分析。本来は「分析」と名のつく以上、理論的かつ科学的なレジュメを目指したものの、気づいてみると単にレポートの形式を化学のレポートの書式にしただけという噂もありますが、諸葛亮死後の三国志にスポットを当てていこうという姿勢は変わりません。

 今回は秘蜀分析シリーズの先がけとなった、魏延に関するレジュメ(1996年11月21日発表)をリメイクして「秘蜀分析第1回復刻版」と銘打ち、前回のレジュメを更に膨らませ、「なーんだ、前に聞いたよ」とは言わせない(?)ものにしたつもりではあります。

2. 緒言

 魏延。字は文長。蜀後期におけるこの名将についての我々のイメージは余りにも悪いものばかりです。道行く人100人に聞いた魏延のイメージは、

 反骨の相の持ち主・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・42人
 孔明の指図によく反発した・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・29人
 『わしを殺せる者があるか』と叫んだ直後に斬られた・・・17人
 「丞相、お腹が痛いんですけど・・」「あ、そう」・・・・・・・・・08人
 その他(ゲームのグラフィックが悪人などなど)・・・・・・・・04人

という具合に、必要以上に悪く言われてしまっていることがこのことからも明白です(上の調査はちなみに冗談です。信じないで下さい)。

 だが、ちょっと待ってください。魏延に関する話のほとんどは羅貫中の三国志演義によるもので、実は陳寿の正史三国志には、「反骨の相」なんて一言も出てきていないのです。では、なぜ魏延はこのように扱われるようになってしまったのでしょうか?

3. フローチャート

 必要以上に悪く言われてしまっている魏延。今回はそんな魏延の一生を追っていく一方で、魏延と諸葛亮・楊儀などの関係や、正史と演義の違いについて調べていこうと思います。

4. 実験

 研究済。横山光輝三国志程度の知識があれば十分。

5. 考察

[これが魏延の生きる道!]

 『蜀書』魏延伝によると、魏延が蜀の武将になった経緯は、趙雲や孫乾の様にもともと武官や文官として採用されたわけではないのです。魏延はただの兵隊長から身を起こした、まさに叩き上げの武人であると言えます。このような職人タイプの人間は基本的にプライドが高く、蜀に非常に尽くしているという自負心があるのは事実でしょう。魏延の場合もまさに腕一本(というか、腕っぷしかも?)で出世したというパターンなのです。

[魏延の野望!]

 『蜀書』魏延伝によると魏延は韓信の故事をまねたいと言っていますが、これは明らかに魏延に自信があった証拠と考えられます。諸葛亮も自分を楽毅などと比較していましたが、心の中で呟く程度ならともかく、口に出してふれまわるのは余程自分に自信が無いと恥ずかしくてできないことです。よって魏延には、自分には韓信と同じことをするだけの能力があると思い、韓信大元帥のように魏延大将軍として軍を率いていると思っていたはずです。

 また諸葛亮が死んだときの魏延の態度も過度の自己認識を表わしていると言えます。自分を持ち上げれば他人が下がるのは当然かも知れませんが、諸葛亮の死を伝える費に対して「丞相が亡くなられてもわしは健在である」とか、「一人の死によって天下のことを廃するとは何事か」とか言っていることからも、諸葛亮軽視というよりは、『北伐の実行者は一人ではなく、自分も北伐を引っ張っている』という強い意志が感じられます。

[トップスター魏延!]

 李厳は当時の蜀では武官の最高位である驃騎将軍につき、漢中を任されたものの、輸送の失敗の責任逃れをしたことにより庶民に落とされます。また、李厳の断罪文に名を連ねたメンバーを見ると、この段階で魏延より身分が高いのは劉だけでした。しかし、劉は武官の位は持っていたものの軍人とは言いがたく、さらに232年に失脚して234年正月には処刑されてしまいます。

 この後、驃騎将軍や車騎将軍に誰かが任命されたと言う記述が無いことから、諸葛亮が死亡した際、武官の最高位は間違いなく魏延だったと言えます。よって、諸葛亮死後、魏延が軍権を握るという主張の正当性は十分あったと言って差し支えないでしょう。これらが先に述べた魏延の行動の原因になったと言えます。

[占術と戦術!]

 魏延が夢を見て、夢占いをしてもらうというのは演義にも書かれている有名な話です。現在の我々から見ると、はっきり言ってうさんくさすぎるものです。しかし、当時はどうだったでしょうか。少なくとも、魏延のような人間が夢を見た後夢占いをするということは、占いはかなりのステータスを与えられていたと考えることができます。すると、趙直の夢占いも魏延の行動を促進した原因の一つと考えられます。少なくとも、非科学が非科学として認識されるようになるのは中世ヨーロッパの錬金術の発達(というか、錬金術自体は大失敗でしたが)からなので、当時は占術もれっきとした戦術(?)であったと言えるのではないでしょうか。

[魏延VS楊儀!]

 魏延のセリフの1つ、「この魏延を誰だと思っているのか。楊儀ごときの指揮を受け・・」というのも魏延のプライドが言わせたのでしょうか。それは違います。この発言は楊儀に関する個人的感情から発生したものなのです。魏延と楊儀の仲は険悪でした。このことは色々なところで書かれており、費伝には具体的にあるくらいなので相当激しかったものだったと推測できます。では、どうして二人はこんなに仲が悪かったのでしょうか。魏延の性格はこれまでにも随所に出てきているので、楊儀について見てみたいと思います。

 楊儀は尚書時代に清潔高尚とうたわれた上司の劉巴とうまくいかずに、弘農太守に左遷されています。なお、ここで弘農太守とあるのは、日本で言えば西国無双の侍大将・尾張守陶晴賢(この人はおそらく京都より東に行ったことはないんじゃ・・)のように、有名無実の肩書き程度のものです。また、楊戯の意見でも楊儀は「多くの人に異を唱え」とあります。以上より、楊儀はもともと他人とトラブルを起こしやすく、それは自分の性格から来ているものであると言うことがわかります。

 プライドが高く「俺の話を聞け!」タイプで、誰もが自分に媚びている(というより、とりあえずおだてられていた可能性大)魏延と、お構い無しに喧嘩をふっかける楊儀。この二人がお友達になる確率は、どんな相性診断マシーンでも0%間違いなしです。信頼と友情は関連があるように、反目が嫌悪につながっていったことは想像に難くありません。

[ああ!魏延、漢中に死す!]

 孔明の死後、楊儀が諸葛亮の指示にしたがって全軍を指揮するようになると、楊儀と魏延の決裂は決定的なものになります。諸葛亮は自分の死後は蜀軍を率いて魏に攻め込めるほど統率力のある将軍がいないと考えて全軍撤退を指示し、楊儀らがそれに従ったのに対し、魏延は自分の地位や能力なら全軍を率いて魏を攻められると判断していたのです。また、先程も述べたように、諸葛亮の次に偉いのは自分だと思っていました。そこに格下の文官で、犬猿の仲の楊儀からの撤退命令です。魏延が楊儀の命令を聞くわけがありませんでした。その結果、楊儀は魏延を残して全軍をまとめて撤退を始めたのです。

 ここからは確実に推測ですが、魏延からすれば諸将が楊儀にしたがって撤退するとは予想外でした。魏延のプランでは、諸葛亮の遺体を成都に運ぶのは諸葛亮の幕府の将だけで、残りは自分の指揮下に入るはずでした。本当は諸将は楊儀を諸葛亮の遺言の実行者と考えて一時的に命令に従っていたのでしょう(普通時なら長史が全軍に号令をかけることは考えられないはずです)が、魏延はそうは考えなかったに違いありません。諸葛亮の腰巾着の楊儀が諸将を巧みにだまして、魏延だけを置き去りにしてはめたのだと考えたのでしょう。「楊儀だけはぶっ殺す!」の一心で楊儀と戦おうとしたものの王平に敗れ、敗走先の漢中で馬岱に切り殺されたのです。

[それは謀反か内乱か!]

 実は、後主伝には魏延が謀反を起こしたという記述はないのです。かわりに、指揮権を争って攻撃しあったとあります。楊儀伝には魏延を殺害したことを誅殺と表現していますが、魏延伝の最後には、による記事として、魏延には反逆の意志が無いと書かれています。このことから、事件の起こっている最中はともかく、あとで振り返ると、あれは謀反ではなかったという認識だったことがわかります。

[魏延と諸葛亮]

 魏延と諸葛亮を語る上で欠かせない「反骨の相」が演義のオリジナルであることは最初に述べました。魏延は諸葛亮を臆病者として軽視して憤慨したことはありましたが、演義にあるように諸葛亮の指図に反発したことはありませんでしたし、逆に諸葛亮が魏延に悪意を持っていたということもありませんでした。

 子午谷進攻作戦は演義では二人の仲の悪さの象徴として扱われていますが、多くの軍事評論家はこの魏延の作戦を実践不可能と批判しており、諸葛亮が魏延の作戦を取り上げなかったのは、蜀には兵士の余裕が無かったから安全策しか認められなかった以前の問題なのです。魏延は張飛を抜いて漢中太守に抜擢された程信頼された武将であり、魏延に対してでまかせの悪口を言った者に対して諸葛亮が断固たる処置をとっていることから、魏延に対する悪意は感じられません。

 一方、楊儀も魏延の悪口を言っていたのに処罰されなかったのは、悪口が本当だったか、諸葛亮は自分の子飼いには甘かった(馬謖とか)のでしょう。諸葛亮は魏延と楊儀の仲が悪いことに関して、どちらか一方に非を求めているのではなく、あくまで二人共に対して残念がっているのです。よって、魏延との間に特別な問題は無かったと言えます。

[魏延 in 演義!]

 実際は蜀の名将だった魏延。しかし彼にとっての不運は、彼が嫌っていた楊儀が三国志演義のスーパーヒーロー、諸葛亮の方針を受け継いだことにことにあったのです。「後に反逆の意志を示すとは言え、諸葛亮の遺言を実行中の楊儀は善玉側の人間であり、これに攻撃を仕掛けた魏延は対比的に悪である」と羅貫中は考えたのでしょう。よって、魏延は必要以上に悪役になったばかりか、魏延は悪人で、無惨な最期が待っていると言う暗示を作品中にちりばめたのです。正史には無い演義のオリジナル部分から、その例を挙げてみましょう。

◎襄陽での攻防
 →襄陽に来た劉備を拒む蔡瑁に対して魏延は門兵を斬って劉備を場内に入れようとしますが、劉備はそのまま去ります(41回)。魏延は劉備よりの武将として登場するものの、魏延の努力は劉備いわく「民衆に迷惑がかかる」ものとされてしまいました。

◎反骨の相
 →これは言うまでもありません(53回)。顔が悪人面とされたのです。

◎宴席での剣舞
 →統の策で魏延は劉封と共に剣舞をし、劉璋を刺殺しようとしますが、失敗します(61回)。完全に魏延はダーク系の役柄になっています。

◎魏延と黄忠
 →黄忠を韓玄から救った魏延でしたが、その恩返しはすぐになされます。魏延は抜け駆けして逆に冷苞に囲まれますが、黄忠に救われます(62回)。ここで魏延は抜け駆けをする功名心の高い武将とされ、黄忠の義侠の引き立て役となります。

◎魏延VS馬岱
 →馬超に対する先手の物見役の魏延は馬岱と会って一騎討ちをしますが、馬岱に手を射られます(65回)。魏延と馬岱の血の関係の暗示と言えます。

◎魏延と諸葛亮
 →南蛮での対兀突骨戦(90回)、曹遵・朱讃への夜襲(93回)、街亭での馬謖の後方部隊(95回)など、諸葛亮の指示に対し、ことごとく最初は反感を示します。これも魏延と諸葛亮の仲の悪さの象徴です。子午谷作戦も、戦術的問題でなく魏延と諸葛亮の関係の悪さの問題にすり替えられたのです。

◎魏延と王平
 →司馬懿をおびき出す作戦を遂行する武将を諸葛亮が募り、魏延を見ますが魏延は尻込みをし、王平が出ることになります(99回)。ここで王平が魏延より優位であることが示されるわけです。

◎箕谷の追撃戦
 →魏延は魏軍を追撃する直前に芝から伏兵の注意を受けますが、それを一蹴して進撃し、敗北します(100回)。ここで魏延が命令を守らないことや諸葛亮の策の絶対性が示されます。

◎葫蘆谷の戦い
 →これも有名。諸葛亮の魏延爆殺計画です(103回)。

◎諸葛亮の祈祷
 →寿命を延ばす祈りを始めた諸葛亮ですが、最終日に魏延が駆け込んで主灯を踏み消します(104回)。これも痛烈な暗示と言えます。

◎魏延の最期
 →これは比較的正史に近いですが、楊儀と魏延の問答や、馬岱の埋伏作戦などドラマチックに仕上げられています。特に、「誰か俺を殺せる者はいるか」という名セリフも加えられて(106回)。

6. まとめ

 問題があるとすれば楊儀とのいざこざのみで、年代的にもはるか後期に起こった出来事なのに、これを魏延の集大成として扱った羅貫中。劉備と諸葛亮を前面に押し出す作業を進めた結果、魏延はこの作業のコマに最も適していると判断され、登場した最初から最後まで反逆者としての反逆者らしい人生を創られる羽目になってしまいました。そういう意味で、魏延は死後1000年も経った後に羅貫中の悲しき操り人形という運命を背負うことになったのです。

 羅貫中に創られた「わしを殺せるものがあるか!?」という、死の直前の魏延のセリフ(この口調は横山光輝三国志のものですが)。このオリジナルのはずのセリフに、なぜか本物の魏延らしさが見えてしまうのは、とても皮肉なことに感じられます。

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