秘蜀分析 第2回

 …蜀の中庸を支えた文武両道の名将…

[分析目的]

 孔明死後の三国志が語られることはあまりありません。あの横山光輝氏も本の中で「孔明の死後は物語が色あせるので、自分としては孔明の死で(コミックスを)やめたい」と書いています。三国志60巻がハイペースで進んだのはそういうわけなのです。しかし、三国志と言うものは実際は晋の天下統一まで続くはずなのです。そこで孔明死後の三国志、特に蜀に入れ込んで物語を追っていこうと思います。

[前回の分析結果&ちょっと付け足し]

 蜀に反旗を翻した反骨の相の持ち主魏延。しかしこれは羅貫中によって脚色されたものでした。魏延の不幸は犬猿の仲である楊儀が諸葛亮の死後、成都帰還の指揮権を握ったことだったのです。もともと主戦派で撤退など考えていなかった魏延は楊儀からの撤退命令を無視します。しかしこれは楊儀の命令だけは聞きたくないと言う個人的な理由によるものでした。それに対して楊儀は軍律違反を理由に王平・馬岱を派遣して魏延を討ち取ります。

 一方、魏延を討って軍を無事帰還させたことに対しての恩賞に不服を持った楊儀は上層部への愚痴が原因で逮捕され、後に自殺します。この魏延・楊儀両成敗とも思える処置が魏延謀反説を否定する要因なのです。魏延が本当に謀反を起こしたのなら、楊儀の待遇も違っていたでしょう。何より正史には「謀反」の文字は無いのです。かくして孔明死後の内紛は一応の解決を見せました。

 尚、この内容は1996年11月21日にやった「魏延…孔明中心主義の犠牲となった哀れなる操り人形…」に詳しく書いてあります。

[本日の分析概略]

 正史三国志蜀書後主伝を見ると、孔明が死んで内紛も解決した236年からの年表が書いてありますが、ここで特に注目したいのは蜀の平和さです。「236年4月に劉禅が‥」とありますが、これは簡単に言うと観光旅行ではないでしょうか。さらに248年までの13年間を見ると、外征0回、防戦1回、反乱3回という具合に、戦いが少ないのです。

 この平和を支えたのは誰でしょうか?そこで出てくるのが費の二人です。時代も功績も似たような二人ですが、費に焦点を当てて内・外両面から分析していきたいと思います。

[分析前調査:無名時代]

 特にどうでもいいような事で友達の董允の父親董和に認められる程度でした。

[分析1:外交官として]

 劉備が生きていた頃、孫権からの和睦の答礼として宗と共に呉に何度か派遣された費。しかし劉備が死んだときの使者の座が芝に奪われたので、最初はあまり期待されていなかったと言えます。費が外交官の能力を発揮するのは孔明の南征後です。凱旋する孔明を歓迎するために皆が出向いたときに費は特別の待遇を受けます。そして後に南征の報告をする使者として派遣されるのです。彼は酒を飲んでも酒に呑まれることはなく、諸葛格と対等に渡り合い、意地悪孫権の攻撃にもびくともしませんでした。これで孫権に気に入られた費は度々呉に派遣されることとなり、孫権も芝・宗預と並んで敬意を表したのです。

[分析2:内政官として]

 資料に載って無いことからもわかるように、費の場合とりわけ目立った功績はありません。しかし、録向書事という内政の最高位にあった時期に事件が起こらないと言うのも、内政が上手く行なわれていたという証明と言えます。中庸を保つのもまた一つの能力です。特に費は事務処理能力に秀でていたと言う意外な事実もあります。また、国の恩賞・刑罰が全てや費によって決定されていたことから見ても、費の内政能力の高さをうかがえます。もっとも、の死後は年表にあるように劉禅が自ら国事を見ると言う衝撃的(?)なことをしているので、完全に政治が費に任されていたわけではなさそうです。ついでに言うと、劉禅はただの暗愚な皇帝ではなかったとも解釈できます。

[分析3:軍事官として]

 年表の通り、費は大将軍として成都と漢中近辺を何度も往復しています。実際に大規模に敵が攻めてきたのは244年の1回だけですが、この時費は援軍に向かう出発直前に訪ねてきた来敏と碁を打つと言う余裕を見せています。ここでもし援軍が間に合わなかったとしたら来敏の責任だったでしょう。しかし、これは「別に急がなくても大丈夫」と言う費の見通しもあったように思われます。他にも北伐に燃える姜維を諫めて牽制したこともあります。このような現状を見極める能力は武将には不可欠なものなので、費にはある種の軍事能力があったことになります。実際彼は諸葛亮の司馬でした。

[分析4:人的魅力]

 費はその性格のためか、よく人間関係のトラブルのシーンで出てきます。魏延と楊儀に関する資料を見ると、費は仲の悪い二人の間を取り持ったり、魏延を騙して何とか穏便に済まそうと画策したり、楊儀の愚痴を聞いたりと大変です。ただ、よく考えるとそれぞれにおいて費がもっと上手く対処していれば魏延も楊儀も死ななかったのではないかとも思うのですが、ともかく嫌われ者で孤独な人から本音を打ち明けられると言うことは、費にはまるで教会のシスターのような母性的な魅力があったのでしょう。

[総合分析:行動から見る人間性]

 今、「母性」という言葉が出てきましたが、その通り彼は非常に温厚で優しかったのです。費の「本性」が「博愛心」というくらいなので実際はすごかったことでしょう。彼は性善説の持ち主だったのか、基本的に人を信じたのです。そして逆に人を信じることにより、費もまた他人に信用されていました。そして彼自身その信用を裏切らないように働いたのです。一応先程見たように仕事の合間に客と会ったり遊んだり、軍事行動の時に碁を打ったりしていますが、これは仕事に余裕のあるときだけで、遊びのために仕事がおろそかになることはありませんでした。

 彼は同時に「罪を憎んで人を憎まず」の考えもあったようです。年表を見てわかるように恩赦を繰り返し、その結果孟光に注意されています。孟光の注意に対する費の態度を見ても彼の優しさと言うか、弱さがにじみ出ていて、僕はこういう人は好きです(個人的意見)。

 しかし「優しさ」は時に「甘さ」になります。張嶷に戒められた費でしたが、彼は人を信じ続け、その結果魏の降将郭循に刺殺されます。

[参考:郭循について]

 郭循の資料は魏中心に書かれており、郭循が本当に蜀に降伏したのではなく連行されたのかどうか定かではありませんが、魏氏春秋を信じると劉禅は連行した相手をいきなり左将軍に任命したこととなり、全く納得できません。更に劉禅暗殺未遂の件も加えると、郭循はおそらく姜維に脅迫されたときに、蜀の人間を殺す目的でわざと降伏して蜀になびくふりをしたのだと思われます。そう考えると費はまさに暗殺難易度ゼロの相手と言えて、何もこんな良い人を殺さなくても・・・と言いたくなります。

[分析結果]

 費は蜀の平和のために働き続けました。そんな費には安らぎの時間など無かったかのように思えますが、実際はどうだったのでしょう。僕はこう思います。費は他人を信じ、認め、慈愛の精神で接し、相手はそれに応えるように費との信頼を深めました。相手が費を「わかる」ということは、すなわち他人が自分のアイデンティティーを認めるということになります。そこで費は自分の存在意義、すなわち自分そのものを他人と分かち合い、共有したのではないのでしょうか。そして複数の人間と共有することで、あたかもベンゼンの共鳴結合における非局在化のように、ストレスや疲れといった負のパトスを分散させ、自分の疲れを軽減したのではないでしょうか。

 他人を信じることで他人に自分を委ね、それを自分の糧としていた費。そんな費だけに、最期に郭循に自分を委ね、散ったことが悔やまれます。

 

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