[分析目的] 孔明死後の三国志が語られることはあまりありません。そこで孔明死後の三国志、特に蜀に入れ込んで物語を追っていこうと言うこのシリーズ秘蜀分析。第3回目の今夜は地味な王子均・夏侯仲権のお二人にスポットを当てて、意外なエピソードや活躍を紹介したいと思います。ちなみに夏侯覇は正史では何も活躍してません。いやはや。 [前回までの分析結果] 謀反を起こした反骨大将軍魏延というのは羅貫中の孔明いれこみ作戦によるものでした。一連の事件は単なる孔明の死による魏延・楊儀の私怨から起こった喧嘩のようなものだったのです。魏延は結局斬られて、楊儀もまた喧嘩両成敗の形で自殺し、孔明死後の内紛は解決しました。 ドタバタ後の蜀の平和を守ったのは費とでした。特に費は青年時代より、外交・内政・人事・軍事とフル回転の忙しさでしたが、持前の能力と教会のシスターのような人柄で仕事も完璧にこなし、慕われていました。しかし、そんな費も魏の降将郭循相手に疲れた心の補完をしようとしたところ、暗殺の意志を持っていた郭循に刺殺されます。 [本日の分析アプローチ] 秘蜀分析1では演義と対比した魏延の人間性に迫り、秘蜀分析2では費の生涯を通じて孔明死後の蜀の内政に重点を当てました。そうすると、あと残されているのは何でしょう。軍事関係ですね。そこで本日登場する王平・夏侯覇は孔明死後の軍事を語るにうってつけと言うわけです。 さらに王平・夏侯覇は魏からやってきた軍人と言うことで、演義では大変重宝されています。諸兄らもこの二人を認識的に同一グループと考えておられる方があるやも知れません。しかし、よく見てみると、この二人は魏から来た軍人と言う以外は人生も行動もまったく極端に異なっているのです。 秘蜀分析3はそんな王平と夏侯覇の人生を振り返ることで対比すると言う比較分析にしたいと思います。 [分析内容の考察・意見について] 実験中の私語は大事故につながる恐れがあるので、意見交換や考察発表は実験終了後のディスカッションの時にまとめてするようにしましょう。賛同よりも批判の方が担当者が喜ぶそうです。 そこ!実験中にオニギリを食べないで!!(実話らしい。詳細不明) [王平、入蜀] 王平が蜀に来た経緯は正史では非常に簡略に書かれており、降伏と言うのが本意なのか、囲まれてやむを得ず降伏したのかはわかりません。特に魏に義理立てしていたと言うわけではなく、自分の才能を活かせれば蜀でも良いと言う考えだったのかも知れません。しかし「降伏」したことで校尉から牙門将になっているので、「帰順」に近い「降伏」だと推測できます。 [職業軍人王平!] 王平は魏延のように叩き上げの職業軍人と考えられます。彼は3回の戦いで活躍していますが、その戦いにおける彼の活躍と言うのは全て防御専門なのです。それを具体的に見ていきたいと思います。
[検証!駱谷の戦い!] 時は244年春。場所は漢中の駱谷において、曹爽・夏侯玄・郭淮率いる10余万(魏書だと6,7万)の魏軍が攻め込みました。蜀は王平が3万弱の兵で駱谷を堅く守備したうえ、費の援軍も到着したため、魏軍は撤退します。
[王平の人間性] 王平は字は知らなくとも頭は切れ、記憶力も相当なものでした。しかし、この文盲と言うのは本人にとってコンプレックスとなっていたのは間違いありません。街亭で馬謖が王平の意見を無視したのも、エリート育ちの馬謖が王平に偏見を持っていたからとも考えられます。 王平が法律や規則を遵守して真面目一筋に生き、武将に見えなかったと言うのも彼の「知的でありたい」という思い入れが感じられます。が、逆に偏狭で疑い深かった言うことは、「自分が馬鹿にされているんでは」と言う被害妄想もあったと言うことなのではないでしょうか。 しかし、全体的に彼は自分の仕事をよく理解し、「軍を率いて蜀を守る」と言う信念を貫いた職人気質な人生を送ったと考えて良いでしょう。 [亡命者夏侯覇!] 夏侯覇はもともと蜀と戦うために隴西に駐屯していたのですが、司馬懿による曹爽誅殺事件で自分の身に危険を感じて蜀に逃げてきたのです。夏侯玄の末路を考えると、夏侯覇のこの考えは別に間違ってはいなかったと思うのですが、夏侯淵を殺された恨みはどこに行ってしまったのでしょうか。心境の変化と言ってしまえばそれまでですが、多少拍子抜けしてしまいます。 [何故夏侯覇は厚遇されたか] 夏侯覇は蜀に亡命したときに厚遇されて、7年後には車騎将軍にまでなっています。夏侯覇は魏の名門だったから蜀でも厚遇されたと言うのも原因の一つですが、実は夏侯覇は蜀の皇族と関係があったのです。張飛は昔、森で出会った少女を捕まえて自分の妻にしたことがあったのですが、その少女というのが夏侯覇のいとこであり、張飛とその少女の間に生まれた娘は劉禅の后になったのです。衝撃です・・ ともかく劉禅の義理の母親の従兄弟が夏侯覇というわけで夏侯覇は一応蜀皇帝の外戚になるのですが、夏侯覇もよく夏侯淵を殺したことを必死に言い訳する劉禅に我慢したものです。 [夏侯覇の軍人としての性質] 夏侯覇は司馬氏に対抗するために蜀にやってきました。魏は既に司馬氏の手にあったので、つまりは魏を倒すことが夏侯覇の目的になっていたわけです。このあたりからは秘蜀分析4の内容と少し重なるのでここでは控え目にしておきますが、彼は父親夏侯淵を殺された時に「蜀に復讐してやる」と決意を固めて人生を過ごしてきたように、今度は「軍を率いて魏に復讐をする」ことが彼の信念になってしまったのです。 [結果考察] 王平と夏侯覇。二人とも魏からやってきた武将ではありましたが、その性質は全く異なっていました。一方は「蜀を守る」で、もう片方は「魏を討つ」です。両方とも蜀の存在を推進することには違いないのですが、この二つ、前者を内向きベクトル、後者を外向きベクトルとすると、この二つのベクトルは思想的にまさに正反対であると言えます(この辺がサブタイトルと絡む)。 蜀の崩壊の原因は国内において外向きベクトルが暴走したからに他ならないのですが、この暴走の原因が夏侯覇の参入であったと考えられます。もともと防御専門の王平・費・に代表される内向きベクトルの国だった孔明死後の蜀において王平・が死に、強力な内向きベクトルが費だけになっても、姜維を押さえることはできました。しかし、夏侯覇の参入によって費だけでは外向きベクトルを押さえ切れなくなってしまい、更にまもなく費も死んだことで、蜀は一気に外向きベクトルの国になってしまったのです。 内向きベクトルの王平が死んだのが248年、そして外向きベクトルの夏侯覇が入蜀したのがちょうど翌年の249年と言うところに歴史の妙さと言うか、不思議さを感じてしまいます。 |