秘蜀分析 第4回

姜維 前編 …例えば「ラビュタ兵」のように?…

[分析目的]

 あまり語られない諸葛亮死後の三国志、特に蜀に入れ込んで物語を追っていこうというシリーズ秘蜀分析。そろそろ終わりも近づいてきた第4回目の今回はついに姜維の登場です。光栄三国志Uでは登場年が遅いことからなかなか見られない幻の将となり、横山光輝三国志では明らかに主役級の顔(横光三国志ではどうでもよいキャラの顔は本当にどうでもよい顔をしている)で劉備・諸葛亮の次の3代目主役キャラをつとめ、「功夫諸葛亮」ではその知名度と人気のせいか、関羽達が生きている時代から青年武将として登場してしまっている姜維。そんな姜維を軍事戦略以外の面から分析していきたいと思います。

[前回までの分析結果]

 蜀を支えた巨大な柱、諸葛亮の死によって発生した偽の反骨大将軍魏延VS偏屈長史楊儀の互いに方向性の違う蜀への忠誠からの大喧嘩(内紛とも言う)。ドタバタ後の蜀の内政を支えながらも仕事に疲れた心の補完に失敗してこの世を去ったシスター費。国の安定という目的に従い忠実に魏から蜀を守った王平。しかし、国内の安定と言う内向きベクトルを持つ名将が次々と死ぬ中で、蜀を一気に外向きベクトルに引っ繰り返してしまった夏侯霸。はてさて、これらの中で姜維はどうしていたのでありましょうか。

「諸葛亮と姜維」

 三国志演義では姜維は華々しいデビューを飾っています。まだ10代にして諸葛亮の計略を破り、趙雲との一騎討ちも見事にさばき返し、最終的に諸葛亮の計略で蜀に下ることになります。しかし、ここでの諸葛亮の作戦は首を傾げたくなるもので、姜維の顔や声までそっくりな偽物を敵の前に送り降伏宣言をさせるのです。いくら暗いとは言え、そこで間違えるほど魏は間抜けだったのでしょうか。ずっと不思議に思っていたところ、やはりこれは演義での創作ということがわかり、納得しました。

 実際は太守が姜維らを連れて巡察しているとき、諸県が蜀に降伏しているのを聞いて、自分の部下も裏切るのではと疑った太守が部下を見捨てて逃亡し、姜維らが追いかけたら城の門を閉められ、そこで仕方なく蜀に降伏したと言う、実際も結構間抜けな話ではあったわけです。

 諸葛亮はこの降伏者をいたく気に入り、倉曹掾(倉穀を司る役職)・奉義将軍・当陽亭侯に報じました。時に姜維は27歳。若くしていきなりの出世には間違いありません。諸葛亮はに「姜維は馬良以上」と誉めたたえ、後に中監軍・征西将軍に昇進します。

[諸葛亮の弱点]・・別に、脇腹をつつかれると駄目とか言うのではありません。

 こうして楊儀・費とともに諸葛亮の子飼いの武将となった姜維ですが、ここで魏延が出てきます。北伐の際に軍師として随行していた魏延でしたが、彼の戦略は有名な子午谷北進作戦です。それに対して諸葛亮は安全な隴右コースを主張したために魏延はヘソを曲げるわけなのですが、諸葛亮が隴右コースを主張したのには訳があったのです。

 慎重で有名な諸葛亮ですが、彼が慎重だったのは彼が戦略に自信がなかったと言うことの現れでもあります。資料の信憑性はわかりませんが、彼が法正の後任の劉巴に対して「陣幕の中で作戦を立てることにかけては、わしは子初(劉巴)に遠く及ばない。撥と陣太鼓を引っさげ、軍門に突っ立ち、人々を勇躍させる(実際の戦闘の)場面だけなら、わしも人に意見が述べられるのだが」と、自身の得意芸は戦略ではなく、あくまで戦術であると述べています。やはり、実際に兵を動かすのは得意だったようですが、戦略には自信がなかったのでしょう。

[弱点の克服&長所と短所の同時性]

 もともと戦略に自信のなかった諸葛亮にとって、魏延の言う奇襲策は受け入れられなかったし、蜀の兵士数自体が少なかったので、安全策をとらざるを得なかったのです。そこに来たのが姜維でした。姜維は軍を率いるのが巧みな上、西方の地理・風俗に精通していたので諸葛亮にとってはまさに渡りに船でした。それ以来蜀の北伐ルートは一定化するのです。ただ、確かに見知らぬ土地を行軍するのは余りにデメリットが多いとは言え、逆に、姜維という一人の案内人の出現によって蜀軍の進行ルートが一定化してしまったほうがデメリットになってしまったという可能性は否めないのではないでしょうか。今年の巨人が「サンデー桑田」とか言うアホな作戦(?)をしたために日曜日は敵(特に広島)に左打者を集められて負けがこんだのと似たような理由です。

[姜維、Just Be Conscious!?]

 姜維にとっても、とりあえずの自分の存在価値が「土地勘」であることはある程度わかっていたと思われるので、あえて別の作戦は考えなかったようです。その点が前時代の将軍魏延との決定的な違いと言えます。魏延も姜維も自信家で強行派でしたが、魏延の一方向性が職人気質から来るのに対して、姜維のそれは自分の弱点を隠すための一方向性に見えて、そこが姜維の弱さともなっています。やっぱり、「逃げちゃ駄目」ですよね?

[姜維は例えばラピュタ兵だったか]

 先程、姜維の一方向性は弱点を隠すためといいましたが、どうも姜維の性格は演義で書かれるほど清廉潔白とは言いにくいようです。資料では「姜維は功名を樹立することを好む」とか、魏にいる母親からの帰れコールに対して「百頃(百畝=一頃)の良田を(蜀から)賜れば、一畝の地しかない我が家は気にもかけないものです」と、どうも彼は立身出世主義で、目立ちたがり屋で、ついでに自分の得意なものでしか勝負しない人間だったようです。

 彼は魏からの降伏者であるにもかかわらず、魏を倒すことに終始しました。一体、どうして彼はここまで打倒魏にこだわったのでしょうか。別に彼は特別に魏に恨みをもっていたとは思えません。その理由として考えられるのは以下のことです。

@姜維が蜀に来たときに諸葛亮が彼を「漢室に心を寄せ」と表現しているように、本当に漢室の復興を願っていた。

A諸葛亮の配下として動くうち、知らず知らずの間に魏を打倒することが使命のように感じられるようになった(諸葛亮必殺奥義、脳波改竄拳)

Bその他

 僕の考えとしては、迷わずBです。確かに諸葛亮のマインドコントロールは恐るべきもので、どんな非常識なことでも「うーん、彼ならできるかも」と思わせる凄さ。それは認めますが、この場合は@やAのような大衆がヤンヤと騒ぐ活劇のネタではないと思われます。

 前に姜維の価値は「土地勘」と言いましたが、姜維はこのことを特に痛切に感じていたのではないのでしょうか。
「自分は魏からの降将で、自分を持ち上げてくれた諸葛亮も死んでしまった。ここで自分が何かを見せてアピールしないとこのまま朽ち果ててしまう!」
自信家で功名心の高い彼にとってはまさに死活問題でした。王平みたいに職務に忠実にいけば良かったのかも知れませんが、姜維は妥協を知らなかったようです。もっとも、当時において諸葛亮から誉められると言うことは相当な励みと自信になった(張悌の例からもわかる)ようなので、その辺は仕方ないかも知れませんが。

 ともかく、魏と戦う以外に彼が名声を得る機会はないと考えた姜維はしつこいくらいに魏との戦いを申し入れます。漢復興が蜀のアイデンティティーだったように、姜維にとってのアイデンティティーは打倒魏になったと考えて良いでしょう。僕が「姜維は自分の得意な分野でしか勝負したがらなかった」というのはここからの推測です。

 結果的に彼は世間で言われるような諸葛亮の遺志を守って動き続けるラピュタ兵とは少し趣が違っていたと結論づけることができます。

[姜維・費の均衡]

 交戦派の姜維に真向から対立したのが費を筆頭とする蜀の国内安定を図る穏健派です。魏討伐を申し出る姜維に対して、費は「我々は丞相(諸葛亮)よりはるかに及ばないのだ。その丞相でさえ中元の地を平定しえなかったのだ。まして我らに至っては問題にもならない」と牽制しています。

 しかし、全ての文官が魏と戦うのを避けたがっていたかと思うと、そうではなくて、あまり知られていない話ですが、は諸葛亮の北伐が失敗したことから、漢水を通って上庸に出るルートを提案しました。それに対して大多数が否定の意見でしたが、安全主義の費からすれば漢水を通るルートだと退却時に困難があるから賛成しにくかったわけで、姜維からすれば自分の知らない土地は都合が悪かったと推測できます。

 は持病のために漢水ルートを強行できずに、費や姜維に説得され、次のアイデアを出します。それは涼州でした。涼州は要害で、魏に敵対心の強い羌族も住んでいました。そこでは土地勘のある姜維を涼州刺史に任命(つまりは出世払いの名誉職)して河右を征討させ、自分は後詰めをするという作を提案し、実行します。ここでは成都を費が守り、姜維が涼州を押さえ、が中間地点ので臨機応変に動くと言う構図を示しています。

[均衡、破れる]

 しかし、この策に従おうとに移動したは持病を悪化させて病死します。そこで残ったのは、成都に留まった安全主義の費と、涼州に派遣されて渡りに船状態の姜維でした。費はこれまで通り、姜維の欲求に対して一万の兵だけ与え、姜維にその兵力で軽く魏をつつかせる程度でしたが、姜維が満足しなかったのは予測できます。

[ブースター夏侯霸の登場]

 事件は唐突に起こりました。魏で政変が起こり、これまで戦ってきた夏侯霸が蜀にやってきたのです。しかも、夏侯霸は劉禅の母親の従兄弟だと言うこともあり(この件は「薪取り少女、森の中で張飛に出会って拉致された事件」として説明済み)、彼はいきなり重職に就くことになります。いくら外戚といえども、これは破格の待遇だと思うのですが、姜維はそんな夏侯霸に目をつけました。夏侯霸は魏への復讐に燃えているのに加えて、ついこの前まで戦ってきたわけなので地理にも自分並みに精通しているはずです。そこで姜維は夏侯霸を主戦派に取り込んで、出兵を促しました。この時も費が制約して完全に姜維の思い通りには行かなかったものの、夏侯霸の登場は姜維の行動を加速するブースターの役割になってしまったわけです。

 今まであまり味方をもたなかった姜維でしたが、夏侯霸の存在は彼にとって、宮中に自分の意見を通すパイプでした。しかも夏侯霸はかなり影響力を持つと考えて良い位置にいる外戚です。これまでの「宮中VS一匹姜維」という不利な状況から一気に好転したと言って過言ではありません。しかも姜維の邪魔をする費はまもなく刺殺されました。費の死後半年して諸葛格に促された姜維はただちに出兵しますが、この時は持久戦に持ち込まれて撤退します。

[費の功罪]

 は北伐にこだわらない発想で新たなルートを開拓しようとしましたが、安全主義の費らに止められて次善策を出しました。この策は自身の死さえなければ問題なかったのですが、これが結果的に姜維を北伐に丁度良い位置(涼州)に置くこととなり、後々まで宮中VS姜維を引き起こすきっかけになったので、これは問題があったと言えます。魏と戦いたい姜維を涼州につれていくのは、医者に禁酒を命じられている張飛を酒屋の前に駐屯させるようなものであり危険なのは推測可能だったはずです。

 次に費ですが、内政を強く打ち出した費にとって、大量消費である戦争に反対することは当たり前でありましたし、費の内政重視によって後の姜維の度重なる出兵に耐える国力が得られたのです。しかし、費は良い人過ぎました。姜維の北伐の申し出を完全に拒否すればいいものを、一万程度の兵を与えて何回か姜維に小さな戦いをさせたのです。まるで駄々をこねる子供におもちゃを与えるかの行為です。

 諸葛亮の第一次北伐が、馬謖の敗北さえなければ成功したかも知れないと言うのは、魏が油断していてほとんど無防備であり、勝ちに乗ずれば蜀がかなり深くまで魏を侵略できたからだと言うのが理由です。もともと涼州は要害なのですから、たくさんの兵が守っていれば、それを落とすのは困難なのです。諸葛亮の死によって魏はおそらく涼州の警戒を解くことを考えていたでしょう。そこで魏が再び油断した頃大軍で攻めれば涼州を奪取できたかも知れません。 しかし費は姜維が魏をつつくのを許しました。魏は蜀が再びちょっかいをかけてくるのに対して涼州の防備を増やし、郭淮を始め、夏侯霸・陳泰・艾といった名将を配置しました。このことが後に蜀が大軍で魏を攻めたときに持久戦に持ち込まれ、退却する要因になったと言えます。だとすると、費の甘さが自分を滅ぼした(郭循に刺殺された事)ばかりか、蜀の未来をも奪うことになったわけで、これは重大なことと言えます。

[魏将の魏将による魏将のための戦い]

 費もいなくなり、姜維は夏侯霸とともに魏と戦い続けることとなりました。夏侯霸にとっては復讐戦であり、姜維にとってみれば北伐は自分の存在そのものと成り果てていました。もはや張翼や廖化が諫めることはあっても、止めることのできる人間はいませんでした。

 こうして見ると、北伐が姜維らによって私物化してしまった感が否めません。更にその実行者である姜維や夏侯霸は魏の人間です。こうなると、国的には蜀と魏の戦いですが、ほとんど魏の内紛になってしまったといっても過言ではないでしょう。 こうして「漢の復興」を目指すのが目的だったはずである北伐が、姜維や夏侯霸によって「魏の打倒」目的に変更されてしまった瞬間、北伐の意義は崩壊し、ひいては蜀のアイデンティティーも崩壊してしまったわけです。もっとも、「蜀漢帝国は漢を継いだんだから、すでに復興済みである」との意見もありまして、そういう場合は別に目標が「打倒魏」でも構わないのですが、今回は蜀は漢の後継者ではないという事で進めておりますので、ご勘弁下さい。

[姜維の孤立化]

 もともと蜀の人間ではなかった姜維。しかも何度も魏に兵を向ける割には勝利できないのに相変わらず漢中で威張っている・・とくると、長年こつこつと働いてきた下積みタイプの中にはそんな姜維に反感を抱く人間も出てきます。馬忠の後任を努め、職務に熱心と評された閻宇もその一人で、姜維に反感を示します。権力を持った姜維を好まなかった黄皓は姜維へのアンチテーゼとして閻宇を見初め、姜維をひきずり下ろそうとしました。

 姜維もこれを察知して、以後成都に帰還しなかったのでそれ以上の激突は無かったのですが、ここまで宮中と姜維の間が切れてしまったことが蜀滅亡を早めた要因の一つと考えられます。たとえ宮中が悲惨な状態だったとしても、姜維はこれを徹底拒絶するのではなく、妥協を示すなり、対処するべきだったと言えますが、やはり苦手なものには手を出さない主義だったようです。

[結果考察]

 実際の姜維は好青年ではなく、単なるわがままで考えの甘い軍人に過ぎませんでした(何だか演義の馬謖に似ている)。姜維の戦術については次回に詳しくやるつもりですが、自分の存在意義を打倒魏に向けるのはいいとしても一時的な功績を得るために戦略性の無い戦術を繰り返しました。それでも姜維が失脚しなかったのは、諸葛亮の後継者であると言うことは想像がつきます(諸葛亮の御神光とでも名付けるべきか)。さらには蜀全体の問題であるはずの軍事・国防を自分のアイデンティティーの存続という個人的問題にすり替えた事も問題です。このことは陳寿も非難している事実です。

 しかし、姜維の戦術に関して人並み以上のものがあったのも事実です。姜維には戦略や政治能力はありませんでしたが、軍人としては立派なものでした。「戦略・戦術・政治」という三本柱のうち「戦術・政治」の2つも高い能力を持った諸葛亮が異常なだけで、「戦術」しか持たない姜維が諸葛亮と比べられたこと自体が不幸と言えば不幸と言えます。もっとも、一番の不幸は高い「戦略」や「政治」能力を持った人材が現れなかったことですが・・・

[まとめ]

 これまでの話は全て、「本当に諸葛亮の遺志で北伐を繰り返すマシーンになっていた」とか「滅亡前の輝き、滅びの美学である」とか言ってしまえばそれまでですが、姜維にとってはやはり自分の存在価値を無くさないための北伐だったのだろうし、滅びの美学を感じながら生きている人間なんてまずはいません。そんなものは後世の人が勝手につけたお涙頂戴物語です。

 姜維は別に師匠の遺志を継いだ熱血漢でも、斜陽の国を支えた運命の苦労人でも、ましてや一つの命令に壊れるまで従い続けたラピュタ兵などではありません。彼は良くも悪くも自分の意志を持ち、信念を貫き、激動の時代を生きた、立派な煌めく英雄の一人だったのです。

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