[分析目的] あまり語られない孔明死後の三国志、特に蜀に入れ込んで物語を追っていこうというシリーズ秘蜀分析。第5回目の今回はついに姜維の完結編です。前回までの簡単なまとめをした上で、実際の戦闘に目を向けて姜維を総合的に分析していきたいと思います。 [第3回までの分析結果] 蜀を支えた巨大な柱、諸葛亮の死によって発生した偽の反骨大将軍魏延VS偏屈長史楊儀の互いに方向性の違う蜀への忠誠からの大喧嘩(内紛とも言う)。ドタバタ後の蜀の内政を支えながらも、お人好しが身を滅ぼした密告魔王もとい、教会のシスター費。職務を果たすため、忠実に魏から蜀を守った王平。しかし、ハト派が次々と死ぬ中で、タカ派をブレイクさせてしまった夏侯霸。はてさて、これらの動きの中で姜維は何をしていたか、そしてこれらの事実と姜維の間にはいかなる関係があったのでありましょうか。 [前回の復習] 演義と異なり、個人的な都合で仕方なく蜀に降伏した姜維。諸葛亮はこの降伏者をいたく気に入りました。時に姜維は27歳。演義では何故か10代ということになっていますが、ともかく若くしていきなりの出世には間違いありません。尚、諸葛亮はに「姜維は馬良以上」と誉めたたえていますが、このことから諸葛亮は姜維を参謀・外交官的な人材として考えていたと思われます。 こうして楊儀・費とともに諸葛亮の子飼いの武将となった姜維ですが、ここで魏延が出てきます。北伐の際に軍師として随行していた魏延でしたが、彼の戦略は有名な子午谷北進作戦です。それに対して諸葛亮は安全な隴右コースを主張したために魏延は諸葛亮を恨むわけなのですが、諸葛亮が隴右コースを主張したのには訳があったのです。 慎重で有名な諸葛亮ですが、彼自身、自分の得意芸は戦略ではなく、あくまで戦術であると述べています。謙遜の可能性も高いですが、用兵力に比べると、戦略の方は自信がなかったと考えられます。 もともと戦略に自信のなかった諸葛亮にとって、魏延の言う奇襲策は受け入れられなかったし、蜀の兵士数自体が少なかったので、安全策をとらざるを得なかったのです。そこに来たのが姜維でした。姜維は軍を率いるのが巧みな上、西方の地理・風俗に精通していたので諸葛亮にとってはまさに、渡りに船、と言うよりは渡りに船頭(?)でした。 それ以来蜀の北伐ルートは一定化するのです。ただ、確かに見知らぬ土地を行軍するのは余りにデメリットが多いとは言え、逆に、姜維という一人の案内人の出現によって蜀軍の進行ルートが一定化してしまったほうがデメリットになってしまったという可能性は否めません。 姜維にとっても蜀における自分の存在価値が「土地勘」であることはある程度わかっていたと思われるので、あえて別の侵攻作戦は考えなかったようです。その点が同時代の将軍魏延・王平との決定的な違いと言えます。魏延らの頑固さが職人気質から来るのに対して、姜維のそれは自分の弱点を隠すためのわがままに見えて、姜維の弱さとなっています。どうも姜維の性格は演義で書かれるほど清廉潔白とは言いにくいようです。姜維は立身出世主義で、目立ちたがり屋で、ついでに自分の得意なものでしか勝負しない人間だったようです。 さて、姜維は魏からの降伏者であるにもかかわらず、魏を倒すことに終始しました。一体、どうして彼はここまで打倒魏にこだわったのでしょうか。別に彼は特別に魏に恨みをもっていたとは思えませんが、理由として考えられるのは、好意的に見れば、
ですが、@のように漢王朝の影響の薄い涼州に育ち、魏に仕えながらも、成りゆきで蜀に来た姜維に漢復興の考えがあったとは思えません。Aに関しても、姜維が寝ている寝台の横で諸 亮が「北伐、北伐」と睡眠学習をしているうちに、姜維の瞳の色が消えて、「ホクバツ・・」と呟く北伐マシーンになったとも考えにくいものがあります。 前に姜維の価値は『土地勘』と言いましたが、諸葛亮死後、姜維はこのことを特に痛切に感じていたのではないのでしょうか。 交戦派の姜維に真向から対立したのが費を筆頭とする蜀の国内安定を図る穏健派です。魏討伐を申し出る姜維に対して、費は牽制しています。しかし全ての将が北伐に反対したのではなく、は諸葛亮が考えなかったルートを考えますが、持病のために作戦を強行できません。さらに次善策をとるものの、持病を悪化させて病死します。費はこれまで通り、姜維の欲求に対して一万の兵だけ与えました。姜維はその兵力で軽く魏をつつく程度でしたが、姜維が満足しなかったのは予測できます。 しかし魏で政変が起こり、これまで戦ってきた夏侯霸が蜀にやってきたのです。しかも夏侯霸は劉禅の母親の従兄弟だと言うこともあり、彼はいきなり重職に就くことになります。姜維はそんな夏侯霸に目をつけました。夏侯霸は魏への復讐に燃えて は北伐にこだわらない発想で新たなルートを開拓しようとしましたが、安全主義の費らに止められて次善策を出しました。この策は自身の死さえなければ問題なかったのですが、しかし、これが結果的に姜維を北伐に丁度良い位置に置くこととなり、後々まで宮中VS姜維を引き起こすきっかけになったので、これは問題があったと言えます。 次に費ですが、内政を強く打ち出した費にとって、大量消費である戦争に反対することは当たり前でしたし、費の内政重視によって後の姜維の度重なる出兵に耐える国力が得られたのです。しかし、費は甘すぎました。姜維の北伐の申し出を完全に拒否すればいいものを、一万程度の兵を与えて何回か姜維に小さな戦いをさせたのです。まるで駄々をこねる子供におもちゃを与えるかの行為です。 諸葛亮の第一次北伐が、馬謖の敗北さえなければ成功したかも知れないと言うのは、魏が油断していてほとんど無防備であり、勝ちに乗ずれば蜀がかなり深くまで魏を侵略できたからだと言うのが理由です。もともと涼州は要害なのですから、たくさんの兵が守っていれば、それを落とすのは困難なのです。諸葛亮の死によって、魏は実際涼州の警戒を解いていました。そこで完全に油断した頃攻めれば涼州を奪取できたかも知れません。しかし費は姜維が魏をつつくのを許しました。魏は蜀が再びちょっかいをかけてくるのに対して涼州の防備を増やし、郭淮を始め、夏侯霸・陳泰・艾といった名将を配置しました。このことが後に蜀が大軍で魏を攻めたときに持久戦に持ち込まれ、退却する要因になったと言えます。だとすると、費のいい人が故の甘さが自分を滅ぼしたばかりか、蜀の未来をも奪うことになったわけで、これは重大なことと言えます。 費ももいなくなり、姜維は夏侯霸とともに魏と戦い続けることとなりました。夏侯霸にとっては復讐戦であり、姜維にとってみれば北伐は自分の存在そのものと成り果てていました。もはや張翼や廖化が諫めることはあっても、止めることのできる人間はいませんでした。 こうして見ると、北伐が姜維らによって私物化してしまった感が否めません。更にその実行者である姜維や夏侯霸は魏の人間です。こうなると、国的には蜀と魏の戦いですが、ほとんど魏の内紛になってしまったといっても過言ではないでしょう。こうして蜀はそのアイデンティティーを失っていったのです。 [姜維の戦い] 具体的に姜維の戦いを見ていくとしましょう。とりわけ重要でないものに関してはダイジェストのみで、参考資料は場所を記載するにとどめます。 240年 隴西方面へ出陣(魏書郭淮伝、蜀書姜維伝) 247年 隴西へ出陣、為翅攻防戦(魏書郭淮伝、蜀書後主伝・姜維伝) →隴西近辺の諸羌族餓何・焼戈・伐同・蛾遮塞が結託して反乱を起こして姜維を招き、これに涼州の蛮族治無戴も呼応します。夏侯霸が為翅に駐屯した後、郭淮が狄道に到着した際に「先に枹罕に進撃すべき」と皆が言うのに対して郭淮は「姜維は為翅を攻める」と判断しました。予測通り姜維は為翅を攻めますが、郭淮が援軍に来たことで姜維は成都に退却します。その後郭淮は進撃して餓何・焼戈を切りました。 248年 石営に出陣、成重山の戦い(魏書郭淮伝) 249年 西平に出陣、牛頭山の戦い 250年 西平に出陣(蜀書後主伝) 253年 狄道に出陣、南安攻防戦(魏書斉王紀、蜀書後主伝・姜維伝) 254年 隴西に出陣、襄武攻防戦 255年 狄道に出陣、トウ西の戦い(魏書高貴郷公紀・陳羣伝中陳泰伝・艾伝、蜀書後主伝・姜維伝・張翼伝) 蜀軍:姜維・夏侯霸・張翼 256年 上に出陣、段谷の戦い 257年 駱谷に出陣、長城攻防戦(魏書艾伝、蜀書後主伝・姜維伝・楊戯伝) [姜維の戦略] これらからわかるように、姜維の北伐は諸葛亮の北伐と違い、涼州の奥地を照準にしています。これは248年に姜維が治無戴と合流しようとしたときに、それに対して郭淮が「あんなに遠くまで行かなくとも蜀軍を破る手立てはある」と言ったセリフがヒントとなります。姜維の狙う場所は魏からすれば「あんな遠いところ」であり、兵士の数も少数です。特に狄道以西は姜維が現れて始めて郭淮達が援軍に向かうと言う特徴が見受けられます。そこで姜維はこの地域を「最も攻めやすい=手柄を立てやすい」と判断したに違いありません。姜維の当初の作戦は、魏をはじっこから切り取っていくものでした。ひょっとすると敦煌も近いのでシルクロード貿易を考えていたのかも知れませんが。 しかし魏にとって不便なところは蜀にとっても不便なところであり、速攻でなかなか城を落とせない蜀軍は大軍がゆえに食料不足を起こす羽目になります。狄道の李簡が降伏した際にそのまま狄道を治めずに引き返したのも維持が不可能だったからと推測できます。そこで、結果的に魏の住民を捕えて蜀に移住させたり、兵糧を奪ったりすることが北伐の目的となります。やはり姜維は北伐を大局では考えず、一時的な手柄しか考えていなかったのでしょう。 [姜維の大博打] なかなか手柄を得られない姜維は259年頃、防衛ラインを大幅に下げて、漢中に敵を招いて一大決戦にもちこむような献策をしました。しかし、これは実は244年に魏が攻めてきたときに王平の部下が王平に進言してあしらわれた作戦なのです。すでに宮中との仲が悪かったはずなのに姜維の力がよほど恐かったのか、この策は受け入れられます。 [一匹狼姜維] もはや宮中と姜維は完全に途切れてしまいました。いくら宮中が嫌いでも徹底拒絶するのは考えものです。せめて改善のための対処、もしくはある程度の妥協が必要だったと考えられますが、やはり苦手なものには手を出さない主義だったようです。 [蜀漢大帝国滅びる] 資料が多すぎるので詳細は各自で確認してもらいたいのですが、「魏書艾伝・鍾会伝、蜀書後主伝・姜維伝」などを中心にまとめます。263年、魏は大軍で蜀を攻めました。数年前に姜維が献策した、漢中で魏を迎撃・撃破する作戦は裏目に出て、鍾会・諸葛緒らに漢中は落とされ、姜維も沓中で艾に破れます。姜維らは剣閣で鍾会軍を迎え撃ちますが、その隙に艾に成都を落とされ、蜀は滅亡します。ここで姜維は鍾会に降伏します。しかし姜維は彼の野心を見抜くと取り入って野心を増幅させ、その結果、鍾会は劉禅を降伏させた手柄に酔って慢心に溺れていた艾を「反逆の恐れあり」と訴えます。 ライバル艾を追いやった鍾会はついに反逆の意志を固めますが、胡烈が鍾会の謀反を防ごうと「鍾会は魏の兵士を皆殺しにする気だ」と言う偽情報を流したために、逆上した兵士達に姜維ともども殺されます。この時に巻き添えで張翼ら蜀の人々も多数死ぬ羽目になります。 [姜維は鍾会に反乱を起こさせてどうする気だったか?] 結局、この反乱は未遂に終わってしまいましたが、姜維はどういう意図で鍾会を反乱に導いたのでしょうか。一般には「鍾会が軍をまとめた後姜維が彼を殺して乗っ取り、蜀を復活させる気だった」というのが定説ですが、姜維の性格を考えると、『打倒魏と言うスローガンは共通であるので、もはや鍾会は姜維の仲間である。だから魏をやっつけられればそれで良い』と考えたのではないでしょうか。姜維にとって蜀の存在とは「漢復興を目指す手段」ではなく、「魏を倒す手段」であるという認識はまだ続いていたはずです。 [北伐の敗因] 姜維は敵地深くに侵攻する際には輜重隊を率いなかったとあります。食料も持たずに戦争に出向くと言うのはかなりの非常識で、蜀軍の食料は羌族に提供させたり、敵陣を奪うことで手に入れていたわけです。諸葛亮がわざわざ木牛なる機械で食料を輸送したほど輸送が困難な地形だから、最低限だけで良いという発想は注目(?)に値しますが。 現地調達を旨とした蜀軍ですが、その目標先は涼州の奥地なので、生産性など見込めなかったはずです。その逆に魏は屯田制を取り入れていたために、おそらく中原からの補給もあり、食料不足は無かったはずです。 更に指揮官の違いがあります。姜維は軍人ではあっても、諸葛亮とは違って政治能力は無かったと言って良いでしょう。諸葛亮は自分で戦略・輸送・戦術を考えられましたが、姜維には無理な話でした。更に敵の艾はもともと農業の専門家です。食料関係には抜群の強さがあり、この農業面から姜維の戦略を察知すると言うことも見せています。せめて成都の人間の誰かが姜維に好意的で、前漢の蕭何のような見事な食料管理ができていたら事態はまた変わっていたかも知れません。 [結果考察] 実際の姜維は演義にあるような好青年ではなく、単なるわがままで考えの甘い軍人に過ぎませんでした。自分の存在価値を打倒魏に向けるのは構わないのですが、一時的な功績を得るために戦略性の無い戦術を繰り返し、蜀を衰退させた元凶となってしまいました。また、蜀全体の問題である国防を自分のアイデンティティーの存続と言う個人的問題にすり替えた事も問題です。このことは陳寿も非難している事実です。 しかし、姜維の戦術に関しては人並み以上のものがあったのも事実です。姜維には戦略や政治能力はありませんでしたが、軍人としては立派なものでした。まあ、もっとも艾のほうが一枚上手だったわけですが。 [まとめ] これまでの話は全て、姜維は「本当に諸 亮の遺志で北伐を繰り返すマシーンになっていた」とか「滅亡前の輝き、滅びの美学である」とか言ってしまえばそれまでですが、姜維はもちろんマシーンではないですし、滅びの美学を感じながら生きている人間なんてまずはいません。そんなものは後世の人が勝手につけたお涙頂戴物語です。 姜維は別に師匠の遺志を継いだ熱血漢でも、斜陽の国を支えるという使命を背負った悲劇物語の主人公でも、ましてや一つの命令に壊れるまで従い続けたラピュタ兵などではありません。彼は演義では物語の軸となったために個性を消されたキャラになってしまいましたが、彼は結果的に良いか悪いかは別にして、自分なりの主義主張や信念を持ち、それに基づいて完全燃焼した、煌めく時代の英雄の一人だったと言って差し支えないでしょう。 |