それ行け科学少年 …曹沖倉舒1800年目の真実…

[科学とはいかなるものか]

 科学・・・それは一定の対象を独自の目的・方法で体系的に研究する学問である。雑然たる知識の集成でなく、同じ条件を満足するいくつかの例から帰納した普遍妥当な知識の積み重ねから成る。(新明解国語辞典 金田一京助編)

 つまり科学とは経験則なのです。一般に科学は自然科学を指すと言われますが、それは狭義であり、大袈裟に言うと「一定の法則が見られるもの」は全て科学なのです。その証拠に社会科学やスポーツ科学なる言葉も存在します。

 ちなみに私がやっている化学はこの自然科学の一部門であるので僕は化学者であると同時に科学者であるとも言えるのです。ややこしい。

[科学少年曹沖倉舒]

 曹沖は父曹操、母環婦人の間に建安初年(196年)に生まれました。環婦人は彭城の人とわかるので、おそらく193年の陶謙征伐の時に娶ったものと思われます。ちなみに建安初年は曹操が献帝を擁して許に遷都した年です。

 曹沖は幼くして相当賢かったようです。孫権が曹操に象を贈ってきたとき、曹操はその重さを知りたいと思いましたが、誰もわかりませんでした。が、曹沖は「象を大きな船の上に置いて、その水のあとがついている所に印をつけ、それと見合う重さのものを載せれば、計算してわかりますよ」と答え、科学の知識を見せています。

[とんち曹沖]

 曹沖の賢さは自然科学だけではありません。曹沖は持前の賢さで何人もの人を救っています。曹沖はその賢さを謀略ではなく、他人を助けるために使ったのです。そのへんが他の人材とは異なります。父親曹操の顔面麻痺症事件とは大違いです。どうやったらこの父親からこういう息子が生まれるのでしょう。環婦人の育て方が良かったのでしょうか?

[少年は死んで神話になったか?]

 曹操は曹沖に後を継がせたかったと度々語って、曹沖が病気になるとあの現実主義人間が祈祷までしています。そして13歳で彼が死ぬと追悼をしています。これだけを見ると曹操の偏愛ぶりだけが強調されていますが、果たしてこれで終わりなのでしょうか?

[真の後継者曹沖!]

 後に、曹丕らに対して曹操が洩らした「これはわしの不幸じゃが、おまえたちにとっては幸いじゃ」という言葉。僕はこの言葉に注目しました。孫盛は彼の発言を非難していますが、ひょっとしたら曹操はかなり本気でこの言葉を発したのではないでしょうか?ここから先は曹沖が真の後継者だ!と言う可能性を探っていこうと思います。タイトルからは遠くなりますが、勘弁願います。

[曹沖の立場]

 曹操には25人の息子がいたとあります。

○劉夫人が生んで正妻丁夫人が育てた長男曹昂(20歳で孝廉になり197年死亡より、少なくとも178年以前の生まれとわかる)
○後妻の卞夫人が生んだ曹丕(187年生まれ)
○曹植(曹操が孫権を攻めたときに23歳なので192年か195年生まれとわかる。曹操が214年から太子が決定した217年の間に自ら孫権征伐に向かったのは214年7月と217年正月の2回だけである)
○曹彰(生年は不明だが、曹植より年上なので190年前後であろう)

この4人が曹沖より年上なので太子候補と言えます。本来であれば正妻丁夫人が育てた曹昂が太子になるはずでしたが、彼は戦死し、それを恨んで愚痴ばかり言っていた丁夫人は離縁されて卞夫人が正妻となります。

 ここだけ見ると、環夫人は正妻になっていないので、曹沖が太子になる可能性はないとも思えますが、卞夫人が正妻になった経緯から考えても、卞夫人が他人にとって変わられる可能性はあったわけです。ただ曹沖が生まれたときの正妻はすでに卞夫人でしたが。

[儒教精神の衰退と長子相続制の崩壊]

 まず曹操が儒教精神を持っていたか・・顔面麻痺症事件に陶謙征伐時の虐殺、花嫁強奪 with 袁紹事件・・どうもなさそうですね。でも親を殺されて怒って「報復」したのは親を一応尊敬していたからで、少しは儒教と言えますから、少しは儒教精神が残っていたのでしょう。

 儒教においてはいくら腹違いと言えども息子は息子であり、曹昂が死ねば次は曹丕です。しかし袁紹や劉表を見ても当時の長子相続制は名前だけの建て前的なものに成り下がり、だとすると長男が死亡した曹家の場合、次男がそのまま後継者、と100%なる可能性はなかったと推測できます。

 曹操が死亡したとき曹彰は曹植に「先王はお前を立てられるつもりだったのだ」と言っています。この発言を見ても、曹丕が太子になることを納得していない様子が見て取れます。儒教精神が厳格であれば、このような言葉は出てきません。よって、曹丕以外の人間が太子となっても、曹操がきちんとした対処をすればそれほどの事件に発展する可能性は低いでしょう。袁紹・劉表の騒動も君主がはっきりと指名しなかったことにあるわけなのです。

[曹丕vs曹沖!!]

ラウンド1:曹操は曹沖が死んだときに「これはわしの不幸じゃが、お前達には幸いじゃ」と言いました。もし曹操に曹丕を太子にする気持ちがきちんとあれば、悲しむだけでこんな言葉は出てこないはずです。

ラウンド2:曹沖の友達候補として周不疑という少年をとりたてようとした曹操ですが、曹沖が死ぬと彼を暗殺しました。このとき「彼は曹沖ならともかく、お前(曹丕)の手におえる代物ではない」と言っています。これは曹操が曹沖と曹丕の人間性を比較している貴重な資料です。周不疑は気の毒ですが、ここで曹操ははっきりと曹沖と曹丕の序列をつけています。

ラウンド3:曹丕は常に「もし曹沖が生きていれば、やはりわしは天下を取れなかった」と言っていました。曹丕が何気なく発した「やはり」という言葉。言葉のアヤかも知れませんが、この「やはり」には曹沖が生きていた場合、曹丕はともかく、群臣達も曹沖を期待しただろうと言う意味が込められていると思います。

試合結果:死者は美化されるものとは言え、ここまで賞賛されるわけなので、曹沖に軍配が上がると言って差し支えないでしょう。

[曹操の行動(官渡の戦い以降)]正史三国志魏書武帝紀第一より

200年 4月:袁紹の攻撃を受けた劉延を救援に向かう。

201年 9月:袁紹を破って許に帰還。袁紹の指示で汝南にいた劉備を撃破。

202年 正月:官渡に出陣。

203年 5月:袁譚兄弟を破って許に帰還。

203年 8月:袁譚兄弟の喧嘩を誘うために劉表征伐のふりをして西平に駐屯。

203年 10月:袁譚と結ぶために黎陽(れいよう)に移動。

207年 2月:袁氏問題に決着をつけてに帰還。

207年 5月:烏丸征伐に向かう。

208年 正月:に帰還。

208年 7月:劉表征伐のため南方に赴く。

208年  冬 :赤壁の戦い。

209年 3月:に逃げ戻る。

211年 7月:馬超征伐。

 この表を見ると、北方関係の事柄は200年4月から208年正月までの94カ月ですが、この間たったの7カ月しか落ち着いた時期はありません。後はずっと戦場にいたのです。北方問題が片づいたかと思ったらたった半年で南方に向かい、孫権とはすぐに決着がつけられないと思うと後は内政の基礎固めをするのです。馬超征伐も曹操から攻めたのではなく、馬超が攻めてきたからなので、これも曹操が戦う気があって戦った戦いではないと言えます。

 この表を曹沖伝と当てはめると妙なことが言えます。曹沖が病気になったのは208年で、曹操は命乞いの祈祷をしているので、曹沖の病気は長引いたと思われます(激しい病気ですぐに死んだらいちいち命乞いの祈祷はしないはず)。おそらく曹操は息子が死ぬまではずっと祈祷をしていたと推測できるので、その間はずっと都にいたはずです。すると曹操は曹沖が病気になると祈祷をして、死んだ後に甄氏の死んだ娘を娶って一緒に葬り、そして劉表を征伐しに行くという芸当をわずか半年の間に全てこなしたと言えるのです。これはどういうことでしょうか?さらに、

 官渡の戦いは袁紹の行動に曹操が向かっていったのに対して、南方征伐は曹操が主体であること。

 袁氏との戦いで後継者争いにつけこむ有利さを知っていたのに、劉氏の後継者争いが起きないうちに攻めていること(曹操の攻撃で劉と劉が協力する危険性が十分にあっ た)。

 一気に南方を攻め立て、負けるとすぐに引き返して内政に力を入れたこと。

 卞夫人を196年に正妻にしたわりには、曹丕を太子にしたのは217年であること。

これらを考えた結果、僕は次の仮説を導き出しました。

[1800年目の真実!!]

 曹操は卞夫人を正妻にしたものの、後から生まれた曹沖の才能に惚れて、やはり彼を太子にしようと考えていたのです。しかし、彼の才能を見極める暇もないまま袁紹が挑発をしたために北方に赴きます。曹操は袁紹を破ると、そのまま北方を安定させる良い機会と考えて袁氏一族と烏丸を一掃します。

 しかし北方を安定させた曹操が帰還してみると曹沖は病気にかかっていたのです。曹操は大慌てでした。嫡子曹昂を失い、更に太子候補の曹沖も失いかけていたのですから。彼は命乞いの祈祷を始めました。が、天は彼を見放したのか、曹沖は13歳でこの世を去ります。

 曹操は残った息子を見回しました。曹丕・曹彰・曹植・その他諸々・・・曹沖ほど使える人材はいないと確信しました。曹沖がいなくなった今、次に不甲斐ない息子たちの誰かが君主になったときに中国は安定でなければならないと考えたのです。曹沖であれば激動の時代も大丈夫だが、他の息子たちではこの時代を乗り切ることはできない、と。そこで曹操の出した結論はこうでした。すなわち、「ワシがやらねば誰がやる!!」です。

 すでに54歳になっていた曹操、いつ果てるかわかりません。曹操は立ち上がりました。劉表の死後の後継者争いは目に見えていましたが、そこまで待てません。ただちに劉表を攻めたところ偶然劉表は死に、劉は降伏してくれました。兵士の損害もほとんど無く、次は孫権です。

 しかし劉表のところから逃げ出した劉備が孫権を焚き付けたために曹操は赤壁で手痛い一敗をします。いったん態勢を立て直したものの、今度は孫権のほうから合肥に攻めてきます。そこで曹操は考えます。孫権をすぐに破るのは無理である。それなら不本意ではあるが、軍を動かせない以上は国の基盤を固めたほうが得策である、と。

 そこで内政に力を入れた曹操。馬鹿息子とは言っても誰かを次の太子候補に決めなくてはなりません。ちょうど5歳になった孫の曹叡が死んだ曹沖のように賢い子供に育ちました。曹叡が君主になれば曹家も安泰と考えたのでしょう、彼の父親である曹丕を太子候補の筆頭に挙げることとなり、曹丕も五官中郎将に任命されます。但し、頭の良い幼児にすぐに惚れると曹操は親馬鹿だと言えなくもありませんが。

 曹操と敵対していた馬超も敗れ、張遼が孫権を叩いたおかげで呉は和睦の使者を送り、呉は名目上とは言え魏の下に入りました。うるさい皇室も黙らせました。更に漢中も手に入れました。これで中国は安定したと思ったのでしょう(逆に言うと中原の人間は蜀を中国とは思っていなかった証拠でもある)、曹操は曹丕を正式に太子とします。こうして歴史は続いていくのです。

[最後に]

 本当はこのレジュメは[少年は神話に・・]で終わるミニレジュメでした。しかし、正史を読んでいく内に不可解な事実に気づき、それを解明すべく今のような仮説を僕なりに導いたわけです。歴史の教科書にも出てこない曹沖ですが、そんな彼の存在が歴史の舞台裏では大きな意味を持っていたと考えると資料の調べがいがあります。

 ご覧の通り、このレジュメは通説を覆すギャグレジュメと思われるかも知れません。が、僕としてはかなり気に入った仮説なので皆様の御意見・御不満・御嘲笑をお待ちしております。             

終わり

                  ミニレジュメのつもりで書いたのに、本題の「秘蜀分析」よりも文字総数が多い・・・

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