天才少年曹倉(沖) …象の計量ばかりが能じゃない!…

[曹沖ってこんな人]

 曹沖は字を倉舒と言い、父曹操、母環婦人の間に建安初年(196年)に生まれました。ちなみに建安初年は曹操が献帝を擁して許に遷都した年です。

”年少ながら聡明で理解力があり、5,6歳にして、知恵のはたらきは成人のようなところがあった。当時孫権が巨大な象を送り届けてきたことがあった。太祖(=曹操)はその重さを知りたいと思って、その方法を臣下達に訊ねたが、誰もその原理を見出すことができなかった。曹沖はいった。「象を大きな船の上に置いて、その水のあとがついている所にしるしをつけ、それと見合う重さのものを載せれば、計算してわかります」 (魏書哀王沖伝)”

このように曹沖は幼くして相当賢かったようです。皆さんの中にも、小学生の時にジャポニカ学習帳を使っていた人は多かったと思いますが、この学習帳の最後のページにも似た話がありました。そこではインドかどこかの王様と、賢い商人の話でしたが、正史三国志にもこのような話が載っているというのはなかなか面白いことです。

[小っちゃいって事は・・?]

 曹沖の賢さは自然科学だけではありません。

”当時、軍事上・政治上の事件が多くあり、刑罰の適用は厳重を極めた。太祖の馬の鞍が倉庫に置かれていたが、ねずみにかじられた。倉庫番は死刑にちがいないと心配した。(中略)曹沖は刀で単衣にねずみがかじったような穴をあけ、心配そうな顔をした。太祖が彼に質問すると曹沖は答えた。「世間ではねずみが衣服をかじると持ち主に不幸があるといいます」太祖「それはいいかげんな言葉だ。苦にすることはない」その後、倉庫番が馬鞍の件を報告したが、太祖は笑って責任を追及しなかった(魏書哀王沖伝)”

曹沖は持前の賢さで何人もの人を救っています。曹沖はその賢さを謀略ではなく、他人を助けるために使ったのです。そのへんが父親終わる人)とは大違いです。どうやったらこの父親からこういう息子が生まれるのでしょう。環婦人の育て方が良かったのでしょうか?もっとも、曹沖がまだ小さい子供だったから、彼の入れ知恵を微笑ましく見ていたという事も考えられます。もう少し大人だったら、逆に疎ましく思われていた可能性もあったでしょう。

[少年は死んで神話になった]

 曹操は曹沖に後を継がせたかったと度々語っており、曹沖が病気になるとあの曹操が祈祷までしています。さらに曹沖の死後に追悼まで行ない、思い出す度に涙を流すありさまです。これだけを見ると曹操の偏愛ぶりだけが強調されていますが、果たしてこれで終わりなのでしょうか?

[真の後継者曹沖!]

 曹操が洩らした「これはわしの不幸じゃが、おまえたちにとっては幸いじゃ」という言葉。僕はこの言葉に注目しました。孫盛は彼の発言を非難していますが、ひょっとしたら曹操はかなり本気でこの言葉を発したのではないでしょうか?曹沖が真の後継者だった!この可能性は十分にありえることです。

[曹沖の立場]

 曹操には25人の息子がいたとあります。まず劉夫人が生んで正妻丁夫人が育てた長男曹昂(20歳で孝廉になる。197年死亡より、少なくとも178年以前の生まれ)、後妻の卞夫人が生んだ曹丕(187年生まれ)・曹植(曹操が214年から太子が決定した217年の間に自ら孫権征伐に向かったのは214年7月と217年正月の2回だけであり、出陣の時に曹操は曹植に「お前も23歳」と言っているので、192年か195年のどちらか生まれ)・曹彰(生年は不明だが、曹植より年上なので190年前後であろう)が曹沖より年上なので、年齢的な太子候補と言えます。

[母は強し、か]

 本来であれば正妻丁夫人が育てた曹昂が太子になるはずでしたが、彼は戦死し、それを恨んで愚痴ばかり言っていた丁夫人は離縁されて卞夫人が正妻となります。

 ここだけ見ると、環夫人は正妻になっていないので、曹沖が太子になる可能性はないとも思えますが、卞夫人が正妻になった経緯から考えても、卞夫人が他人にとって変わられる可能性はあったわけです(まあ、卞夫人はいい人だったから、丁夫人みたいに疎まれて離縁ということはないとは思いますが)。

 また、蜀漢皇帝劉禅の実母は、出身は妾で、一回も正妻になれないまま死んでいます。環夫人も正妻にはなっていませんが、このことからも、太子候補に正妻はそんなに関係していないことがわかります。劉禅の母も、死後に皇后の名を与えられているので、名前は後からどうにでもなると言うことでしょう。

[本当に、太子候補は年の順?]

 儒教においてはいくら腹違いと言えども息子は息子であり、曹昂が死ねば次は曹丕です。しかし袁紹や劉表を見ても当時の長子相続制は名前だけの建て前的なものに成り下がり、能力や、親の好み次第で後継者が決定される場合もありました。だとすると長男が死亡した曹家の場合も、次男がそのまま後継者と100%なる可能性はなかったと推測できます。また、

”(曹操が逝去したとき、)曹彰は到着すると曹植に向かっていった。「先王がわたしを召されたのは、おまえを世継ぎにたてられるおつもりなのだ」(魏書任城威王彰伝)”

に見られる曹彰の発言を見ても、曹丕が太子になることを納得していない様子が見て取れます。長子相続の思想が厳格であれば、このような言葉は出てきません。よって、曹丕以外の人間が太子となっていても、曹操が生前にきちんとした対処をすればそれほどの事件に発展する可能性は低いでしょう。袁紹・劉表の騒動も君主がはっきりと指名しなかったことにあるわけなのです。

[曹丕vs曹沖!!]

ラウンド1

”「これはわしの不幸じゃが、おまえたちにとっては幸いじゃ」”

→これで数回目ですが、もし曹操に曹丕を太子にする気持ちがきちんとあれば、悲しむだけでこんな言葉は出てこないはずです。

ラウンド2

”周不疑は幼少の頃からなみはずれた才能があり、聡明で優れた理解力をもっていた。(中略)太祖の愛息曹沖も幼い頃から才知があり、周不疑とはよき相手になるだろうと思われた。曹沖が亡くなると、太祖は周不疑を疎ましく思い、彼を殺そうと思った。曹丕が諌めると、太祖は「周不疑は曹沖ならともかく、お前が使いこなせる代物ではない」といい、刺客をさしむけて周不疑を暗殺した。(魏書劉表伝付『先賢伝』)”

→これは曹操が曹沖と曹丕の人間性を比較している貴重な資料です。周不疑は気の毒です が、ここで曹操ははっきりと曹沖と曹丕の序列をつけています。ただ、それ以上に、最初から曹丕を太子と決めていたのなら、曹丕程度では扱えないような人材を、有能な弟につけるという真似をするでしょうか。そう考えると、曹操の頭の中で、曹沖を補佐する集団は曹丕の集団よりも上と言うことになり、やはり曹沖のほうが太子候補に近かったと考えられます。

ラウンド3

”文帝(=曹丕)はつねに「長兄(=曹昂)は自ずから限界があったが、もし倉舒が生きていたならば、わしはやはり天下を支配できなかったであろう」(魏略)”

→曹丕が何気なく発した「やはり」という言葉。言葉のアヤかも知れませんが、この「やはり」には曹沖が生きていた場合、曹丕はともかく、群臣達も曹沖を期待しただろうと言う意味が込められていると思います。

試合結果

→死者は美化されるものとは言え、ここまで賞賛されるわけなので、曹沖に軍配が上がると言って差し支えないでしょう。

[1800年目の真実!!]

 曹操は卞夫人を正妻にしたものの、後から生まれた曹沖の才能に惚れて、やはり彼を太子にしようと考えていたのです。しかし北方を安定させた曹操が帰還してみると曹沖は病気にかかっていたのです。曹操は大慌てでした。嫡子曹昂を失い、更に太子候補の曹沖も失いかけていたのですから。彼は命乞いの祈祷を始めました。が、天は彼を見放したのか、曹沖は13歳でこの世を去ります。

 曹操は残った息子を見回しました。曹丕・曹彰・曹植・その他諸々・・・馬鹿息子とは言っても誰かを次の太子候補に決めなくてはなりません。
そんなとき、ちょうど5歳になった孫の曹叡が死んだ曹沖のように賢い子供に育ちました(時代的には曹沖の死後2年くらい)。曹叡はいい3代目になれると考え、彼の父親である曹丕を太子候補の筆頭とし、能力を試すことにしました。

 ま、こんなものでいいか、と曹操が考えたかどうかは知りませんが、曹丕は曹沖の死後9年して、31歳の時に魏の太子に立てられます。こうして歴史は続いていくのでした。

[結論]

 後の曹操の行動や、曹丕兄弟の不仲などを考えると、曹沖は郭嘉と同じようなことが言えるかも知れません。すなわち、早く死んだことによって惜しまれ、曹操との間に遺恨を残すことがなかったと言うことです。曹沖が長生きしていたら、曹沖+周不疑コンビは曹植+楊脩コンビのように、「ヘタな知恵がついたうざい集団」扱いされていた恐れもあります。

 しかし曹沖が生きていた当時、この頃に関して言えば、曹沖は曹丕や他の兄弟よりも太子候補としては数段階上の位地にランクされていたというのは間違いありません。

 優秀な能力と、機会に恵まれていながら歴史の表舞台に立つことなく消えていった曹沖。天の時を得られなかったから、その程度の器と言えばそこまでですが、敢えて曹沖は長生きするべき人材であったと言う結論で終えたいと思います。

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