考察千里行 〜Does he leave CLANNAD ?〜

[未知との遭遇]

 コーエーの真三国無双3※1のメガヒットなどにより、三国志に興味を持つ人が増えています。三国志は様々な小説やゲームとなって我々の前に転がっており、その結果、皆さんが三国志に入門するキッカケとなった要素も多様化しています。

例えば・・

「吉川英治」→ある年代以上なら、間違いなくこのパターン。

「横山光輝」→多数派? ちなみに僕はこのパターン

「光栄のゲーム」※2→初期段階で武将名や地名の知識が豊富な人が多いです

「真三国無双」→最近の流行。陸遜が若い&二喬がロリなど、ツッコミどころ満載

 しかし、なかなか一般の人がとっつきにくいジャンルがあります。それは歴史としての三国志、いわゆる「正史三国志※3」です。最近のゲームはやや正史よりになっていますが、演義※4も混ざっているため、逆に初心者が区別しにくい部分もあります。だからといって、いきなり図書館で分厚い歴史書を読み込むのも大変です。そこで、このレジュメでは正史入門として、ゲームにも出てくる「関羽千里行」について正史の側面から考察してみたいと思います。

[演義の千里行]※5

まずは、皆さんが知っている関羽の千里行が演義でどう描写されているかについて簡単にまとめてみました。

1.関羽、許都から脱出し、劉備のもとに向かう

2.追って来た曹操から錦のひたたれを贈られる。

3.夫人が山賊にさらわれるが、廖化が救う。

4.胡華から息子胡班への手紙を預かる

5.東嶺関で孔秀を斬る

6.洛陽太守韓福・部下の孟坦を斬る

7.沂水関で、鎮国寺の僧普浄のおかげで卞喜を倒す。

8.ケイ陽太守王植の命令を胡班が関羽に告げ、難を逃れる。

9.黄河の渡り口で秦hを斬る

10.孫乾に出会い、汝南に方向転換。

以下、夏侯惇との一悶着、周倉との出会い、古城での張飛との再開と続きます。※6

[正史の千里行]

 資料@を見て下さい(例会ではちくま文庫のコピーを配布)。これは正史関羽伝※7の記述ですが、その簡潔さに驚くのではないでしょうか。「五関は?」「周倉は?」といろいろな疑問を感じるでしょう。しかし、それらは全て演義の創作。つまり、三国志演義を書いた羅貫中という人が、話を面白くするためにとってつけたオリジナルストーリーなのです(実は、三国志演義は羅貫中個人が1人で作った作品ではないのですが、話が面倒なので省略)。

ちなみに正史では武将ごとに人物伝が立てられていますが、関羽のことを調べるのに関羽伝だけでは足りません。そこで、正史の巻末にある索引を利用して、あの時期の関羽の関係者※8をピックアップし、片っ端から彼らの伝をあさって関羽の記事を集め、簡単にまとめたのが下の表※9です。

198年 9月 劉備、呂布に敗れて妻子を捨てて曹操のもとへ

198年12月 曹操が呂布を斬首し、劉備の妻子が劉備のもとに戻る。

199年 冬  劉備が車冑を殺し、小沛で独立。

200年 正月 董承の曹操暗殺計画が漏れて、関係者が皆殺し

200年 春  曹操が徐州を落とし、劉備の妻子と関羽を捕虜にする。

200年 夏  関羽が劉備のもとに逃げ帰る。

201年 冬  曹操が汝南の劉備を攻め、劉備は荊州に逃亡

[夫人の謎]

 ここで僕はあることに気がつきました。関羽伝はおろか、先主伝にも夫人の話が出てこないではありませんか。関羽が演義のように夫人を守って劉備のもとに帰ったのなら、必ず記述があるはずです(かなりの功績のはずなので)。

正史の関羽は夫人を見捨てて自分だけトンズラしたのでしょうか?

もしそうだとしたら、関羽はただのヒゲの長いヤクザです。※10

 さらに資料Aが追い討ちをかけます(劉封伝によると、劉備が劉封を養子にしたのは、当時の劉備に後継ぎがいなかったからとある。演義と違い、正史では劉禅はこのときにまだ生まれていない)。

 関羽とともに捕まったのは劉備の夫人だけでなく、子どももいました。しかし、劉備は後継ぎがいないと言っています。このままいくと、正史の関羽は夫人どころか、本来後継ぎとなるべき子まで見殺しにした不忠者ということになります。つまり、第一の仮説として以下のものが導かれます。

A:関羽は劉備の夫人と息子を置き去りにして、劉備のもとに逃げ帰った

[妻‘子’とは?]

 ここで、仮定Aへの反論を試みましょう。そもそも劉備の「妻子」とありますが、息子とは言っていません。昔は女性の記述が少なかったとは言え、娘だった可能性もあるのではないでしょうか。実際、子が娘の意味に使われることもあります※11。そうだとすると、少なくとも関羽が「後継ぎ」を見捨てたという罪は免れます。

B:関羽は劉備の夫人と娘を置き去りにして、劉備のもとに逃げ帰った

[妻子の生死]

 上の考察は「劉備の妻子が生きていた」場合の話です。では、今度は視点を変えてみましょう。ひょっとしたら、関羽が妻子を見捨てたのではなく、既に妻子は死んでいたという可能性もあるわけです※12。その検証をしてみることにします。

 先主伝等によると、劉備の妻子は1度呂布に捕らえられましたが、その後呂布と劉備が和睦すると、妻子は返されています。再び呂布と劉備が反目して妻子が捕虜になったときも、呂布は妻子を殺していません。そして呂布が処刑されたときに妻子が劉備のもとに帰ったと記述してあるので、この「妻子」は全て同一人物です。

しかし、正史には妻子の名前が記されていません。甘夫人とも糜夫人※13とも別の夫人なのです。彼女の名が残らなかったのは何故なのでしょう。やはり、彼女は歴史に名を残す前に死んでしまったと考えるのが妥当なのです。

C:劉備の妻子は死んでいたので、関羽は単独で逃げ戻った

[どうして妻子は死んだのか]

 では、劉備の妻子が死んでいたとして、どうして死んだのか考えてみましょう。

 表の200年正月を見ると、董承の曹操暗殺計画が発覚し、関係者は皆処刑されたと書いてあります。劉備の妻子はこのときに曹操によって処刑されたと考えられないでしょうか※14。劉備が董承と曹操の暗殺計画を練っていたのは正史にもある事実です。通常の戦争であれば、敵将の妻子は捕虜であり人質となりますが、劉備は曹操の暗殺を図った謀反人。曹操が手元にいる劉備の妻子を生かしておく理由が無いわけです。

D:劉備の妻子は曹操に処刑され、関羽は劉備のもとに逃げた

[関羽の恩返し?]

 すると、当然次の疑問が出てきます。曹操が劉備の妻子を殺したのだとしたら、どうして関羽は曹操に恩義を返して(正史でも関羽は顔良を斬っている)から劉備のもとに帰ったのかということです。中には「関羽は夫人を守って降伏したはず。その夫人を処刑した曹操に恩返しをするなんて!」と思う人がいるかもしれません。
しかし、その「はず」は大間違いなのです
※15。正史では劉備の妻子は小沛で捕虜になっています。そして関羽が捕虜になったのは下ヒ[丕β]。つまり、関羽が曹操配下になったのは別に妻子を守るためではなく、単純に攻められて捕まっただけとも考えられるのです。つまり、関羽は劉備の妻子とはつながっていなかったということです。

E:そもそも関羽は劉備の妻子と無関係なので、一切ノータッチ

[真実(?)の千里行]

 D,Eこそ、僕が考える実際の関羽千里行です。これを時系列に並べると以下のようになります。

1.董承らの暗殺計画が発覚し、関係者が処刑される

2.激怒した曹操は小沛を攻め、劉備は逃走し、妻子が捕虜となる

3.つづけて曹操は下ヒを攻め、関羽を捕虜にする

4.劉備の妻子が処刑されるが、関羽は命を救われ、厚遇される

5.関羽は顔良を斬り、厚遇された恩義に報いる

6.関羽が劉備のもとに単独で脱出する

 義兄弟的要素が強いことを考えれば、関羽が劉備の妻子について何とも思っていなかったということは不思議ではありません※16。僕は仮定としてA〜Eまでの説を考えましたが、皆さんはどう思われるでしょう。

[まとめ]

 小説のイメージが強く残っていると、とても受け入れられない仮説かもしれません。しかし小説は小説、事実は事実なのです。自分のお気に入りだからという理由で勝手なイメージを作り、それにより歴史的考察を曲げることは許されません※17。逆に、歴史的事実にとらわれすぎて文学やゲームといった世界を否定することもまた、認めるべきではないと僕は考えます※18
 今年20周年を迎える早稲田大学三国志研究会はその名の通り三国志を愛好する者達が、ある者は歴史学的に、ある者は文学的に、また京劇ファン・ゲーマーの見地から各自の知識・熟練を極めんと研究するサークルです
※19。歴史としての三国志と、ゲーム・小説としての三国志を混同せず、それぞれ別個のものと認識した上で、それぞれを楽しむマルチ思考※20が必要ではないでしょうか? この世には絶対的に正しい価値観など無いのですから。

以上


[脚注]

.コーエーのアクションゲーム。やおい人口の増加に一役かったらしい。

.どの作品から始めたかによって、世代間格差を感じることがある。僕はSFCのスーパー三国志2から。

.陳寿という人が編纂した歴史書。正史と言っても、「正しい歴史」という意味ではありません。

.三国志演義のこと。以下、「演義」と記述します。

.吉川英治や横山光輝の三国志は、ほぼ演義に沿っているので、とりあえず演義に限りなく近いものと考えて構いません。細かいところは全く違いますが・・

.趙雲の登場を際立たせるため、かませ犬として瞬殺された裴元紹のことを忘れてはならない。合掌。

.正史では、人物ごとにエピソードがまとまった形式になっています。

.武帝紀・先主伝・呂布伝あたり。巻末の年表も役立ちます。ちなみに夏侯惇伝・張遼伝にはこの時期の関羽はいっさい出てきません。

.本当は資料として全て掲載するべきなのですが、かさばるので一部省略しました。

10.三国志に出会ってから今にいたるまで、僕の関羽への評価はこんなものです。

11.今回は漢語大辞典のサイトを利用しました。卓上版の岩波大漢和は必携の書ですね。

12.1つの出来事を双方向から考える視点は大事だと思います。客観的に、中庸に。

13.正史に出てくる劉備の奥さんの名前です。孫夫人はずっと後に登場します。

14.実際、曹操がこの事件の後最初に攻めたのが劉備です。その後も劉備は曹操が来るたびに逃走していることを考えると、「捕まったら即処刑」という頭があったのかもしれません。

15.「演義にも正史にもある」ことと「正史にあるが演義に無い」ことと「演義にあるが正史に無い」ことの区別はとても難しく、専門家でもたまにゴチャ混ぜになっているようです。中国史の授業なのに諸葛亮が風を吹かせる話をしたりとか(ネタ・余談として話すならともかく)。

16.義兄弟の契りは家族の絆よりも強い結束です。2002年の早稲田祭における岡崎先生の講演にもありましたが、義侠色の強い民間伝承の中には、桃園の誓いのときに家族が足かせにならないよう、劉備三兄弟がお互いの家族を殺したという話もあります(花関索伝もこのパターンだったような)。

17.若くてハンサムでない陸遜様なんて認めない!みたいな考え方。ある種の熱病にかかって冷静な判断ができていない状態なので、理論的な説得はまず通用しない場合が多いです。

18.遊び心を知らない、余裕のない人間は大成しないというのが僕の持論です。

19.嘘・大げさ・まぎらわしい広告はジャ○に訴えられてしまいます(爆)

20.マルチは素晴らしい

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