〜神秘的煉丹術として理念化された漢代の諸科学実験〜
the Lecture On Various Experiments in the Han period, Idealized as Numinous Alchemy

1. 序

皆さんは煉丹術というものをご存知でしょうか?
道教の道士たちが不老不死を求めて研究に邁進したと言うあれです。秦の始皇帝の死因は、当時不老の薬と信じて服用していた水銀による中毒であるという話もあります。その始皇帝の命令で薬を求めて旅立ったとされる方士徐福の伝説もあります(徐福の墓は和歌山県新宮市にあるといわれています)。薬局で売ってる「仁丹」の名前の由来も煉丹にあります。

 しかし、だからといってこれらの煉丹術を非科学的で取るに足らないものと考えるのは浅はかです。中国科学の研究家ジョゼフ・ニーダム博士の努力により、古代中国は技術的にも思想的にも西洋に匹敵するものであり、煉丹術から生まれた現代でも通じる自然科学の知識・技術は一時期西洋をはるかに凌駕していたことが報告され、この報告で東洋思想は世界的に認められるものになりました。また、何でもジョン・レノンの「レット・イット・ビー」はインド思想を強く受けた歌詞だと言われているそうです。(インドも東洋だし・・)

 そこでこのレジュメでは、煉丹やその母体となった道教、それらが三国時代にもたらした影響についてまとめてみました。

2. 道教について

2.1 道教の発生

 道教は中国古代から伝わる占星術、陰陽五行説、神仙説などの古代信仰と、万物には精霊が宿るというアニミズムが混合したものです。ここには当然開祖や教義は存在しませんでした。その意味では原始道教は神道に似ているかもしれません。

2.2 道教と道家

 一般に道教の神様は太上老君(老子)と言われています。が、今述べたように本来の道教に開祖はいません。これは老子らの唱えた老荘思想(道家)―無為自然が有名ですが―が、原始道教の唱える神仙思想に結びつきやすかったため、漢代に原始道教が道家を取り込んでほぼ一体化してしまったからなのです。

 「封神演義」には道教である主人公の仲間(配下)として文殊天尊ら仏教のメンバーまで融合していますが、道教はこのように様々な思想・信仰を吸収して成長する宗教と考えられます。なおメンバーの呼称は、道教が道家と結びつくまでの原始道教は方士、結びついた後は道士と言い分けられています。

2.3 「気」と「丹」の概念

 「西からデカい気が近づいてくる!」とはドラゴンボールで有名ですが、道教で言う気とは異なります(ただし元気玉は道教の「気」に近い)。道教ではこの世の全ての物質は霊的なものも含め、気で構成されていると考えました。体も、魂も、空気も、大地も、宇宙でさえ気で構成されるとしたのです。人間や山は気が集まったもので、周囲を気が流れていると考えました。つまり「気体( gas )」です。

 ここで溜まっている状態の気を「丹」、その丹が留まる場所を「丹田」といいます。小さいころお年寄りに「集中するときは下腹部に力をこめて・・」と教わった人はいませんか?この下腹部に人体の丹田があるとされています。当時、山や木々といった自然は半永久的な存在でした。ここで、自然も人間も気で出来ているので、自然の気の流れを知ることで、人体に活用して自然のように気を永遠に活動させることが出来るのではないかという考えが生まれます。不老不死の思想の誕生であり、大きく内丹術・外丹術に分けられます。

2.3.1 内丹術

気を人体に活用する際、人の体に気が溜められるならば、より多くの気を溜めることは出来ないか、また、溜めた気を外に逃がさずに留めることはできないかと考えられたのが内丹術です。例としては、

@気の流れをスムーズにする「導引」という体操
A生命の気を外に逃がさない「胎息」という呼吸法

などがあります。漫画等でもよく出てくる有名な「房中術」もこれに当てはまります。

2.3.2 外丹術(煉丹術)

 内丹術は上に述べたように、日々の修行が欠かせません。そこで、自然界の物質から上手く「丹」を取り出して、それを人間が服用すればいいのではないかと考えられたのが外丹術、いわゆる煉丹術です。

  トレーニングは面倒だから、薬を作って飲めばいいという発想です。そこで水銀を始めとする様々な自然界の物質が煉丹の材料として研究されました。このあたりは西洋の錬金術に類似しています。

2.3.3 風水・讖緯

  内丹・外丹は人間に重点を置いたものですが、自然界の気の流れを研究することで自分の周囲の気を良くし、日常生活に役立てようという考えが生まれます。これが風水です。

 またスケールを大きく考え、世界全体の気の流れを調べて世の中がどうなるかを研究する学問も生まれます。これが讖緯と呼ばれる学問で、いわゆる予言です。星の動きを見て状勢を判断する占星術も讖緯の1つと考えて差し支えないでしょう(厳密に考えれば違うが、やってることは似ているということで)。袁術が皇帝を自称したときにこだわった「当塗高」も予言書の中にあったフレーズです。

  讖緯は天命を示しているので、権力者は不老不死研究の学問である内丹・外丹の次に、この讖緯にこだわりました。秦の始皇帝は「秦を滅ぼすのは胡」という予言を信じて万里の長城を作ったのです。結局秦を滅ぼしたのは息子の胡亥だったというオチですが。

3.漢代までの煉丹実験

3.1春秋戦国から秦

 煉丹術を行う方士達が始めに目をつけたのが水銀でした。水銀は金属でありながら簡単に蒸発・気化します。つまり方士から見れば、簡単に霊気を取り出せるということです。またアマルガム(水銀と金属の合金)の中には金色のものもあり、色彩的にも神秘的です。鉛や鉄も容易に化学変化を起こすため、煉丹に向いているとされました。この時代に書かれた「周禮」には五毒として、

@丹砂( HgS )  赤色。鳥居に塗られたほか、昔の絵の具にも使用された。
A雄黄( As2S2 ) 顔料に使用。今は使用禁止。
B石膽( Pb3O4 ) 赤の顔料。今では鉛蓄電池に使用される。
Cヨ石( FeAsS ) 自然界に最も多く存在する砒素化合物。このままでは使えない。
D慈石( Fe3O4 ) いわゆる磁鉄鉱。

が知られており、これらを火で加熱して融解したり、酸化・還元することで様々な化合物を生み出しました。実験設備としては、炉とフイゴと鼎を組み合わせた簡単なものだったようです。ちなみに五毒が上の物質だと同定したのは後漢の学者鄭玄で、劉備も一時期弟子入りしていたそうです。演義では、曹操に攻められた劉備が袁紹に救援を求めるときに鄭玄に口添えを求めています。

ただし、五毒が現代で言う何に当るのか(上のカッコ内)については諸説あり、専門書によっては違う物質になっているものもあります。実際、僕が見た文献にも、Cのヨ石がFeAsSではないものがありました。

3.2 漢代
 漢代には春秋時代に培われた知識の集合体として『神農本草経』が著され、方士のバイブルと言うべき存在になりました。これは薬物の主な効能・性質・産地などが明確に記され、半分以上は現代医学でも通じるとされます。しかし、煉丹の性質も強く、水銀の説明で「精神を養い、魂魄を安んじ・・」という記事もあります。

 後漢の成帝も煉丹を好み、方士劉向が『列仙伝』を書きましたが、その中に「劉向が仙人から『三十六水方』を授かった」という記述があります。これは張良が黄石老人から兵法書をもらった故事と同様マユツバですが、『水方』がこの時期に確立されたと知ることは出来ます。

 煉丹では火を使うというのが常識ですが、水方は無機物質を水に溶かす方法を記したものです。金属は普通は水に溶けませんが、硝石(KNO3)と酢を混ぜて硝酸を作れば、硝酸は金属と錯塩を作るので、金属を水に溶かすことが出来るのです。この硝石と酢の混合・金属の溶解には竹の筒を用いたとあります。

 また、後漢の魏伯陽は142年頃、煉丹の集大成として『周易参同契』を著しました。ヨーロッパのルネサンス時代、偉大な錬金術士パララケルスパラケルススもこれらの本を参考にしていたと言われています。つまり、煉丹は神秘的な理念のみに限らず、正しい科学の知識・技術をも世間に広める要因となったのです。

4. 漢代の宮廷内における思想対立

しかし、宮廷全てが原始道教にのめりこんだかというとそうではありません。例えば儒教を実践する儒家は天道の目的を「仁義礼智信」にあり、身を修め国を治めることが道であるとしました。儒家は不老不死や丹という神秘的なものを嫌い、方士を攻撃しました。彼らは煉丹に対し、測量を基盤とする自然科学を理念としました。天文学の張衡、紙を発明した蔡倫などの科学者が現われ、王充も『論衡』で唯物主義を唱えて煉丹や讖緯を激しく攻撃しました。思想対立が自然科学の発展を促したとする意見もあります。

こうして宮廷から方士は駆逐され、儒教は知識人や官僚の思想として宮中にとどまる一方、原始道教は「官に対するもの」として民間に広まっていきました。結果的に、宮廷内の宗教の対立が官と民の大きな溝を作り出す要因となったのです。暗に儒教をそしり、道教が主役の「封神演義」を庶民は好み、国家は発禁にしたと言われるのも頷けます。ただし、医術に関しては煉丹から発展したものであっても、有効性が高かったせいで宮廷から駆逐されることは無かったようです。とは言え、さすがに皇帝が丹を飲むことはとりあえずなくなりました。(後世にまたこの悪習が復活しますが)

方士が民間に広まる中、沛出身の張陵は老子の無為自然の思想を原始道教の神仙思想と組み合わせ、『道徳経』を経典とする道教「五斗米道」を形成しました。ここから方士は道士と結びつき、一体化するのです。

5. 三国時代の道教

5.1 三国志の道士(方士)たち

 三国志には様々な人物がでてきますが、彼らの中には道教の影響を強く受けた人物がいます。そのうちの一部を紹介しましょう。

5.1.1 華佗

 華佗と聞けば、ほとんどの人が医者と答えるでしょう。魏書によると華佗は薬草を用いた治療法を行っていました。麻沸散と呼ばれる麻酔薬を用いた切開手術も、演義のオリジナルではなく、正史に記されています。しかし、華佗の医術は前述したとおり、丹を追い求める道教に由来するものだったのです。

 華佗伝には、華佗が弟子に長寿法を聞かれ、導引を勧めるシーンがあります。熊などの獣の動きを真似た体操についても語っています。これは明らかに内丹術(2.3.1参照)です。このことから、華佗は道教思想を強く受けた人物だとわかります。

5.1.2 于吉

 呉書に「于吉は道士である」とあるので、言うまでも無く彼は道士です。演義における于吉も道士として描かれています。

5.1.3 左慈

 演義では左慈は完全に魔法使いのように描かれていますが、正史での彼は房中術(精を出さずに性を楽しむ方法。これ以上の説明はちょっと・・)を極めた道士となっています。時代が下るとともに道士が神格化されたため、演義が書かれた時代に左慈は道士というだけで「神」がかりなことができる人物と解釈され、演義で魔法使いのように書かれたのでしょう。また、左慈という名前は、煉丹が「左道の術」と呼ばれていたことによるものかもしれません。また、宦官までもが左慈の房中術を習ったとありますが、これはどういうことでしょう!?ニセ宦官か?

5.1.4 張角

  張角の黄巾の乱は道教とは無縁のように思われます。が、呉書孫策伝の注によると、実は張角の太平道は于吉をベースにしていたのです。つまり張角も道士であると言えるのです。民衆が黄巾の旗に集まったのも、民衆の宗教である道教だったからです。

5.1.5張魯

 原始道教が老荘思想を取り込んで完成した道教「五斗米道」の教祖張陵の孫が張魯です。張魯は曹操に追いつめられて降伏しますが、殺されませんでした。むしろ道教の徒でありながら、曹操に侯に取り立てられており道士にしては、安泰な人生を送っているといえるでしょう。なお、太平道や五斗米道については、当会の過去のスペシャル鶏肋譚に詳細が記してあります。

5.2 道士の民心掌握術

 正史によると、于吉にしても張角にしても「まじない」や「水」によって信者を増やしていったとあります。ここで言う水とは何なのでしょうか。大きく分けて2つの可能性を考えてみました。

5.2.1 本当の薬

 華佗の例にわかるとおり、煉丹を行う道士は薬草の扱いにも長けていました。煉丹と言うと水銀などの無機物質を考えがちですが、バイブル『神農本草経』に掲載されている365種類は薬草が中心となっています。水銀に興味のある方士でも、同じ本に載っている薬草の知識はさすがに身に付けていたはずです。やはり、方士はもう1つの側面である医師として、薬草を煎じた水を飲ませて信者を救っていた可能性があります。

5.2.2 幻覚系の毒

 東南アジアや南アメリカでは、呪術師がキノコなどから抽出した毒を用いて信者を酩酊状態・興奮状態にして儀式を行ったとあります。これにはゾンピパウダーなどが知られています。道士たちもやはり、まじないの水の中に何らかの毒成分を混入していた可能性があります。考えられるものを列挙してみました。

 @トリカブト

 トリカブトは中国でも古来より烏頭として知られ、バイブル『神農本草経』にも掲載されています。その説明によると、「味が辛くて温である。大毒あり。寒さを去る。」とあります。トリカブトの成分はジテルペン系アルカロイドのアコニチンであり、舐めると舌に灼け付く感覚を得ます。少量であれば新陳代謝が活発化し、強心作用があるのです。この、「舐めると温」というのが「陰陽で言えば陽(プラス)」とつながり、トリカブトは煉丹でも重視されていきます。
アルカロイドは窒素塩基の化合物であるため水溶性が高く、抽出にも向いています。信者を昂揚させるのに用いたと考えても不思議ではありません。

A大麻

 華佗は麻沸散という麻酔を用いたとありましたが、この麻沸散の原料と考えられていたのが大麻です。ご存知のとおり大麻には麻薬効果があり、道士がこれを用いて信者を獲得したとも考えられます。清朝末期にアヘン患者が増えたのも、この手の結社が多くあったからだといわれています。しかし九州大学の西岡教授の研究により、中国や日本に自生する麻には、大麻の主成分であるテトラヒドロカンナビノールが含まれていないことがわかりました。麻薬となる麻はインド原産のもので、仮に西方貿易で入手可能だったとしても一般の道士が使うには絶対量が足りなかったはずです。よって華佗の麻沸散も今では大麻由来ではないと言うのが定説になっています。

B水仙

 中国っぽいイメージで毒がある植物と言えば、これです。水仙にはタゼチンと言うアルカロイドが含まれており、睡眠・麻酔効果があります。水辺に咲く神秘的な姿とあいまって、道士が愛用したのではと思ったのですが、調べたところ水仙はペルシア原産で、中国に伝播したのは唐代以降と判明したため、三国時代の使用は不可能のようです。

Cキノコ

 毒と言えば、キノコ。キノコと言えば、毒。というわけで、キノコの中でも幻覚毒として名高い、白樺の林に自生するベニテングタケに注目しました。が、毒キノコを使用していると言う描写は北方民族(シベリアや樺太地方含む)には見られるのですが、三国時代の漢民族には見られません。キノコも乾燥させて煎じれば容易に成分を水にとかせるので注目しているのですが、文献調査が及ばず、断念しました。

D福寿草

 最後に僕が目をつけたのが福寿草です。福寿草は春に黄色い花を咲かせるため、道教に受け入れられやすかったと想像できます。春は誕生の季節。黄色は五行の中心でシンボルは土であり、王道楽土のイメージがあります。黄巾の乱の「黄」も、道教集団であることを考えれば、「王道楽土」の意味が強かったのかもしれません。キンポウゲ科の福寿草には不飽和ラクトン環を持つステロイド系化合物が数種含まれており、根を水に煎じて飲むと酒に酔ったようになることが知られています。

 以上、数種類を列挙しましたが、可能性として高いのはやはりトリカブトや福寿草でしょうか。ただし、『神農本草経』に書いていない植物で道士が山林で偶然発見した可能性も否めず、これらはおそらく門外不出の情報と推測できるため、書物に記されていません。残念なことです。(普通、企業秘密は書き残したりしないか・・)

補足:当時まじないに使った札を燃やし、その灰を混ぜた水を用いることがあったようで、「まじないの水」とは一般にはこれを指している可能性が高いと思われます。ここで述べた毒の話は、あくまでも「こういう可能性もあった」という推論です。

5.3 道教の行方

5.3.1 呉の道教

 呉では名門葛一族の一人、葛玄が神仙思想にはまった影響を受け、葛玄のいとこの子供に当たる葛洪が登場します。葛洪は『抱朴子』という煉丹術の本を記し、煉丹の大成者とも言われています。また、『神仙伝』の著者でもあります。煉丹が流行すると自然科学が発展した経緯が漢代にはありましたが、呉の場合も同様で、陸遜の一族陸積・姚信らは宇宙論を体系付け、これに基づき葛衡が渾天儀を作成しました。渾天儀とはプラネタリウムの元祖と言われているカラクリ仕掛けの機具です。これら自然科学の発達が知識人を呉に呼び寄せ、六朝文化を支えていたのです。

5.3.2 蜀の道教

  前漢から王莽の時代、権力者はみずからの統治を正当化するため、讖緯を重視しました。讖緯の学問は漢になってから始まったため今文と呼ばれ、春秋時代のものは古文と呼ばれました。しかし後漢になって儒家の台頭が始まると、讖緯は低俗なものとして避けられ、再び古文を持ち上げる動きが始まります。例として、同じ春秋でも「春秋公羊伝」は今文、「春秋左氏伝」は古文にあたり、どちらを学ぶかで思想が分かれていました。

 が、それに関係ない地域がありました。蜀です。蜀は辺境の地にあったため、中央における教育改革(?)が伝わらなかったのです。また、中央から追放された今文派も逃げ込んできたのでしょう。その結果、蜀は三国時代になってすら讖緯を重視する今文派が台頭していました。尹黙などはこれに反発して荊州に遊学し、司馬徽(いわゆる演義の水鏡先生)に弟子入りして古文を習っています。

 他にもまだ讖緯を重視している人がいました。袁術もそうでしたが、劉備です。劉備はこれまで群盗的な勢力に過ぎず、蜀を得たとは言え、天下に号令をかけるには大義名分が不可欠でした。曹操・諸葛亮ら知識人はともかく、一般民衆を手なづけるにはどうしても大義名分が必要だったのです。讖緯はそれにうってつけでした。

 こうして蜀では劉一族の正当性を主張する目的で(?)讖緯が生き延びつづけます。荊州から来た諸葛亮・伊籍・尹黙にとって今文学は受け入れられないもののはずですが、そのあたりはお国の事情を優先せざるを得なかったのでしょう。劉禅の代になると荊州から来た学者は死に絶え、再び今文派が台頭する時代となります。これは時代の流れとは逆行したものです。

 ショウ周はケ艾が成都に攻め込んできたときに、劉禅に降伏を勧めた人物ですが、彼もまた讖緯の達人でした。重大事には讖緯に基づいて物事を判断するという蜀の特徴が現われています。

補足:天文と讖緯とは別の体系で発展していたとも考えられますが、とりあえずこの場は魏・呉・蜀の道教的概念をそろえるために、天文も讖緯の一種のようなものとして考えています。ちょっと強引な論の展開で、駄文との指摘を多数受けました。反省。

5.3.3 魏の道教

 曹操が青州で黄巾賊を撃破したとき、彼らを青州兵と名づけて魏の精鋭部隊となりました(青州兵の起源については当会の過去のレジュメに詳しい)。このことから、賊ではなくなったものの、太平道自体は思想的に存在し続けたものと考えられます。ここで張魯が魏に来たことにより、張角を失って分散した太平道は五斗米道に飲み込まれ、魏の信者は増加の一途をたどりました。が、張魯自身は曹操の配下にいるので、曹操は張魯を使って民衆を掌握しようと考えたのかもしれません。

 魏から晋の時代になるころ、五斗米道は天師道と改名し、張魯の直系の子孫は天師道の天師として代々受け継がれ、現在は台湾でやはり天師として活動しています(本当に直系かは不明ですが)。

6. 結

 道教はその起源ゆえ中国の民衆の生活様式に密着したものであるはずが、神仙思想と結びついて権力者の不老不死という非科学的な願望の手段となりました。とはいえ、煉丹を理念においた方士たちの実験が、煉丹とはベクトルが正反対である自然科学の発達を結果的には促すことになったのです。

 混乱の時代の中、民衆は「官の思想」である儒教に対するべく「民の思想」である道教を支持し、混乱が収まる三国時代に道教もまた再編成されます。「統一された民間宗教」としてある意味民心の安定につながった魏。「煉丹」として医学や自然科学を発展させた呉。「讖緯」として国の存在理由に使われた蜀。いずれの国においても道教がもたらした影響は計り知れないものがあります。道教は中国の民衆の精神的支柱としていつの時代においても常に存在しつづけているのです。


参考資料

・ブックスエソテリカ4 『道教の本』 学研 (1992) 道の章・不老長寿の章
・島尾永康 『中国化学史』 朝倉書店 (1995) 第6章
・杜石然 『中国科学技術史 上』 東京大学出版会 (1997) 第4・5・6章
・ジョセフ=ニーダム 『中国の科学と文明』 思索社 (1980) 第5巻第4部に詳細がある
・山崎幹夫 『毒の文化史』 学生社 (1990) 第1章〜第4章
・一戸良行 『毒草の歳時記』 研成社 (1988) 各該当章
・西岡五夫「大麻の研究」 『ファルマシア』 第11巻第5号(1975)に所収
・正史三国志 魏書:華佗伝・張魯伝
         蜀書:尹黙伝・ショウ周伝
         呉書:孫策伝                                    など。

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