わくわく毒物ランド!

[アプローチ]

今回のレジュメは「わくわく毒物ランド」という、もとネタ即バレなタイトルですが、主に三国志演義(なお、吉川英治氏や横山光輝氏の三国志はこの三国志演義を発展させたものなので、内容は基本的に同じと考えてよい)に出てきた毒に関する説明をしていきたいと思っています。

[毒の関係者リスト]

出典 被害者 加害者 内容
第2回 王美人 何太后 帝の寵愛を妬まれて毒殺された。
第2回 董太后 何進 何太后を馬鹿にした董太后に、何進が報復措置として。
第4回 少帝 李儒 献帝を即位させた董卓が、もう用済みの邪魔な少帝を毒殺した。
第23回 曹操 吉平 董承の曹操暗殺計画によるが、未遂に終わる。
第29回 孫策 許貢の刺客 鏃に塗ってあった毒で孫策は発病する。
第51回 周瑜 陳矯軍の兵士 計略で城内に誘引され、毒矢を受ける。
第61回 荀イク 曹操 魏公推挙騒動による曹操との不和で、服毒自殺。
第66回 献帝の息子 曹操 伏完による曹操暗殺計画の発覚に連座した毒殺刑。
第75回 関羽 曹仁軍の兵士 曹仁軍の毒矢攻撃で負傷。肩をやられる。
第108回 司馬師軍 姜維軍 毒を塗った連弩攻撃で、司馬師軍は壊滅状態に。

ちなみに、毒は諸葛亮の南蛮征討のときにも出てきますが、南蛮関係はあまりにもSF色が強く、文化もへったくれもないただの空想に近い毒が多いので、ここでは割愛します。(例えば、蜀兵が飲むと腸がただれ、蛮族が飲むと元気百倍になる水って何!?)

[三国志演義の時代考証]

現在、テレビの時代劇は当然ながら時代考証にかなり力を入れています。が、三国志演義は14世紀中頃に作られた作品であり、時代考証についてはそうとう曖昧なものになっています。水戸黄門で遠くの空に飛行機が飛んでたり、うっかり八兵衛がうっかり「黄門様、ナイス!」とか言ってしまったりするのとはわけが違います。

例えば、張飛の蛇矛や関羽の青龍偃月刀などは三国時代には本来無い武器なのです。羅貫中は自分の時代の武器や軍事制度を三国志演義に取り入れてしまったわけです。しかしながら、毒に関してだけは三国時代と元末明初の時代とは大して変わっていないので、演義の中の毒はちゃんと三国時代にも存在していたと考えてかまいません。

[飲むと塗るとは大違い]

時代考証は毒については論じなくてもいいと先ほど述べたので、改めて右下のリストを見てみましょう。すると、大きくわけて2つのパターンが見えます。一方は権力者が対立勢力を始末するために毒を飲ませるパターン。他方は、弓や槍に毒を塗って攻撃力を高めるパターンです。この2つは毒としては全く性質の異なるものです。

例えば、よく転んだときに塗る軟膏タイプの傷薬があります。これは当然傷口にぬっても毒ではありません(とゆーか、毒だったら困る)。しかし、軟膏をパクッと口に放り込んでみましょう。怪我が治るどころか大変なことになります(死なないとは思うが)。つまり、同様に考えれば飲む毒と、矢に塗る毒はまったくの別物と認識してよいというわけです。

[毒の正体]

三国志演義の中に出てくる毒は2種類あるわけですが、これに関する具体的な記述が演義の中に見られます。まず、皇帝の座からおろされた少帝が嘆きの詩を作るシーンで以下のような描写があります。

董卓はかねがね人をやって帝の身辺をさぐらせていたが、その日、部下がこの詩を手にいれて、董卓のもとへ差し出した。「こんな怨みの詩を作るようなら、殺しても名分が立つ」董卓はこう言って、李儒に武士を十人つれて永安宮へ行き、帝を弑めて来いと命じた。帝は、太后・妃とごいっしょに二階におられたが、女官から李儒の来たことを知らされて愕然とされた。李儒が鴆毒を盛った酒をすすめたので、帝がそのわけをおたずねになると…(以下略) 

(三国志演義第四回)

ここで出てくる毒は中国の毒として最もポピュラーな鴆毒とよばれるものです。鴆毒は鴆という毒鳥の羽を酒にひたして抽出した猛毒ですが、当然ウソです。そんな鳥はいません。詳細不明な毒をまとめて「鴆毒」と総称しているという説もありますが、一般には鴆毒の正体は砒素化合物(特に亜砒酸)であると言われています。詳細を知りたい方は松山赤十字病院(論文発表当時)の宮崎正夫氏が日本薬史学会で発表した論文を検索してみて下さい。国会図書館とかにあります。

次に、毒矢に塗る毒の記述を見たいと思います。毒矢を受けて腕が腫れた関羽のところに華佗が訪れるシーンで、

関公が肌ぬぎになって臂を差し出すと、彼は言った。「これは鏃の傷で、烏頭が塗ってあるため、毒が骨にまでしみております。早いうち治しておかねば、この腕は使えなくなりましょう」…(以下略)

(三国志演義第七十五回)

さすが名医華佗。傷を見ただけでトリカブトの毒と判断してしまいます。このトリカブトは附子とも呼ばれ、日本では古来よりもっともポピュラーな毒として使われてきたものです。古代日本では毒とはすなわち附子を指し、これは日本人の名字で「毒島」のように「毒」を「ぶす」と読むことや、狂言「附子」(坊さんが水飴を毒と偽って小僧を脅かすが逆にやりこめられる話)で民間レベルまで親しまれている(?)ところからも毒文化の根付き具合が見て取れます。ちなみに、醜い人の呼び方の「ブス」は語源が異なるようです。

[毒への評価]

三国志演義は水滸伝などと同時代に書かれた非常に任侠的な作品です。義理や人情を大事にする劉備三兄弟や孫策・周瑜。それに対して実利主義をとる権力者たち。この対比を軸に見れば、毒の被害を受けたのは少帝や周瑜、関羽に荀イク、あと一応曹操と、非常に能力の高いものばかりです(少帝は読者の同情票ねらいなんだろうな)。このように、英雄達に対して使われた「毒」は明らかに、正面からでは都合が悪いような「卑怯者や権力者が使う道具」と成り果てています(ただし、曹操については悪の強調目的と思われる)。南蛮軍が毒を多用するのも南蛮の知恵の無さと野蛮(卑怯)さを強調するためでしょう。姜維が毒の連弩を使ったのも・・あれ、蜀漢は正義の国なのにフォローができない。まあ、毒矢を使用せざるを得ないくらい切羽詰まった蜀の様子が見て取れますね(強引)。

とは言え、「毒」=「卑怯・悪」という構図が出来上がってしまったのは非常に残念なことです。

[まとめ]

中国では紀元前より不老不死を求めて水銀を飲んでみたり、道士や仙人の思想が強かったりした分、幻の秘薬を求めるために実験を繰り返し、結果的に各種化合物の合成や精製が発展しました。鴆毒や烏頭の普及はその副産物といえます。彼らは不老不死の対極にある毒に負のイメージを結びつけ、以後、表舞台から毒の姿は消えます。しかし、毒は常に歴史の傍らに存在し、歴史を変えてきました。有名な「朕は国家なり」を「鴆は国家なり」にしても意味深なものを感じることができるのではないでしょうか。


[おまけ]

@亜砒酸(arsenous acid)As2O3

→三価の砒素化合物の代表格。無味、無臭で温水に溶ける。5mg以上の服用で胃痛、下痢、けいれん、失神を経て数時間から数十時間のうちに死亡。少量を長期に服用した場合、胃腸障害、腎障害、肝障害、神経障害を起こして死ぬ。皮膚が次第に黄ばみ、皮膚癌を起こしやすくなる。
 某事件で再びクローズアップされたが、ヒ素は確実に証拠が残る毒物であるため、現代においてこれを使用するのは馬鹿である。一部マスコミは当初「毒物マニアの犯行」と指摘していたが、毒物マニアはそんな足がつくような毒は絶対に使わない(ヲイ・・)。

Aアコニチン(aconitine)C34H47NO11

→トリカブトの主要毒成分でアルカロイド(昔のブロック崩しゲームの名前ではない)。特に注射による毒性は強く、致死量は3〜4mgである。唇、腹部の皮膚などにしびれ感、灼熱感をおぼえ、麻痺を経て呼吸困難で死ぬ。この性質から毒矢に頻繁に使用された。

[参考文献]

三国志演義  上・下(立間 祥介 訳、 平凡社)

三国志演義   (井波 律子 著、 岩波新書)

人、毒に会う   (山崎 幹夫 著、 光文社)

毒の文化史   (山崎幹夫・杉山次郎 共著、 学生社)

毒を盛る化学   (三輪 明 著、 新風社)

化学辞典   (志田 正二 ら編集、森北出版)

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