傅僉〜漢中防衛戦に散った男〜

[前回までの(?)あらすじ]

西暦262年、姜維は自分の名誉のために侯和に出撃するものの、トウ艾に撃破されて沓中まで転進します。そのころ蜀漢大帝国の帝都、成都においては宦官の黄皓らが宮中での権力を我が物にせんと、姜維追い落とし作戦を練っていたため、身の危険を感じた姜維はそのまま沓中にとどまっていたのでした。そんな時に傅僉は姜維の指示に従って漢中を守備していました。

[魏軍、来襲!]

トウ艾・鍾会率いる大軍により蜀漢は滅亡のときを迎えてしまうわけですが、皆さんはこの戦いにおける蜀漢の敗因を何に見るでしょうか。劉禅の能力うんぬんは無しにして、この戦いだけを見たときの決定的な敗因です(つまり、ここの敗戦が全体の敗戦を招いたというところ)。演義中心の人ならば、陰平から谷越えをしたトウ艾軍にさっさと降伏してしまった江油城の城主を責めるかもしれません。綿竹関の攻防を挙げる人もいるかもしれません。

しかし、僕が思うには、この魏の侵略を食い止められたであろう可能性はただひとつだったと思っています。それが今回話すことになる漢中防衛戦です。

[傅僉、孤軍奮闘す]

魏書だけ見ると、陽平関(陽安関)が落ちたのは圧倒的な戦力差で厭戦気分の高まっていた蜀軍が投降してしまったように思えます。が、蜀書には以下のような記事があります。

鍾会が漢・楽二城を攻撃包囲し、別将を派遣して陽平関に進撃させたため、ショウ舒は城を開け渡して降伏し、傅僉は格闘して戦死した。
『漢晋春秋』にいう。ショウ舒は城を出て降伏しようとするとき、傅僉を欺いて「今、賊軍がおしよせているのに出撃もせず、城を閉ざして守備に当るのは良策ではない」といった。傅僉が「命令を受けて城を守っているからには無事に守り抜くことこそ手柄なのだ。今、命令に反して出撃し、もしも軍隊を失い国家の期待に背くようなことがあれば、死んでも何の足しにもならないだろう」というと、ショウ舒は「きみは城を無事に守り抜くことを手柄だと考え、わしは出撃して敵に勝つことを手柄だと考えている。それぞれ自分の思い通りにやろうではないか」といい、軍勢を率いて出て行った。傅僉は彼が戦うものだと思い込んでいたところ、陰平に到達すると胡烈に降伏してしまった。胡烈は虚に乗じて城を襲撃し、傅僉は格闘して戦死した。

なんと、陽平関が落ちたのは蜀将の裏切り行為だったのです。そのため、傅僉は格闘して戦死することになってしまったのです。(どちらの資料にも「格闘して戦死」とあるのだから、本当に格闘して戦死したのだろう。カンフー諸葛亮みたいな男である。)もっとも、「格闘」には通常の戦争行為の意味も含まれているので、タイマンで死んだのかどうかは不明ですが・・僕の心の中では格闘=タイマン勝負なんですけどね。男塾。

[蜀、防衛成功のシミュレート]

張魯伝によると、陽平関は張魯の弟ですら、あの曹操の大軍を防ぎきることができる関だったのです。鍾会が漢中に攻め寄せたとき、陽平関の守将がキチンと守り通していれば、そう簡単には落ちなかったはずです。

ここで歴史IFモードに入りますが、もし陽平関を守り通せていたならば、姜維・張翼らは橋頭の諸葛緒を挟撃して撃破し、陽平関への援軍に向かえたはずです。陽平関にたどり着きさえすれば、まだ落ちていない(漢・楽城の2城は蜀滅亡まで降伏しなかった)支城と共同作戦が行えたはずです。

剣閣攻めの段階で食糧不足を起こしていた魏軍には、陽平関での苦戦は厳しいものとなり、結局食糧不足を起こして撤退、別働隊のトウ艾も撤退を余儀なくされるというシナリオも十分にありえたはずです。

[本当の敗因?]

244年に曹爽が侵攻してきたとき、王平は漢中の入り口を堅く守って魏軍の侵入を許しませんでした。部下の中には

「敵を漢中に招き入れて戦っても何とかなる」

と進言した者もいましたが、王平は「それは違う」といい、下策として退けました。が、その下策を後に採用したのが姜維だったのです。彼は王平の作戦では敵を防ぐ事はできても、敵をせん滅(つまり返り討ち)して功績を得ることはできないとして、敵を漢中に招きいれる作戦に切り替えていたのでした。

しかし、それはあくまで敵が漢中方面だけのときの話でした。姜維の妄想(?)としては、鐘会が漢中に攻めてきても、陽平関で押さえている間に自分が到着して敵を破れば功績アップで、立身出世だイェーイ(口調が・・)。だったはずです。まさか魏が多方面から攻めてきて、自分が魏の別働隊にあたらねばならないとは考えていなかったでしょう。

やはり姜維は戦術はともかく、戦略はちょっと・・の人物だったようです。

最後に、傅僉の父親、傅ユウは夷陵の戦いで劉備軍の殿軍を努め、降伏を勧めた呉軍にたいして、「呉の犬め。漢の将軍には降伏するものなどおらぬわ」と啖呵を切って戦死した豪傑でした。蜀漢に殉じた父子二代にわたる忠義を称えてこのレジュメを終わります。

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