[呂義とは?] 呂義。字は不詳。三国志演義(平凡社「中国古典文学大系」立間訳を使用)によれば、益州牧劉璋の臣。劉備が蜀を治めてからも他の降伏諸官と同様に重用された。建興5(227)年、諸葛亮が出師の表を奉り、1回目の北伐を行う。このとき呂義は定遠将軍・領漢中の太守であったが、後軍領兵使副将として従軍した。正史にその名は見えない。 すなわち、呂義の演義での活躍はただ1つ。北伐のメンバーとして名前が出たことのみである。いわゆる一行人生というものだ(それは「活躍」なのか?)。 [呂義の存在意義] すると、ここで疑問が生じる。 演義の作者はどうして呂義を登場させたのであろうか? 彼の他にも一行人生の武将は三国志演義に多く見られるが、例えば一騎打ちで趙雲に殺された涼州の韓一族など、主役級キャラの活躍のかませ犬としての存在意義がある(ひどい…)。仮に見せ場がなかったとしても、「○○城を守備させた」とか「使者として送った」など、少なくとも行動は記されているのである。しかし呂義はどんな行動をしたかすら書かれていない。本当に名前しか出てこない役なのだ。だとしたらむしろ最初から登場させなくても良いではないか? そこで、呂義を登場させるメリットを考えてみよう。 1.ストーリーを面白くするため 正史準拠で蜀中心の物語を書いたら、それこそ連戦連敗で面白みの無いストーリーになってしまう。そこで演義では後半のネタ不足解消として、オリジナルストーリーを挟んでいる。南蛮征伐はもとより、北伐のときも関興・張苞らに史実には無い大活躍をさせている。史実では全く何もしていない2人に架空の戦場と戦功を与え、物語を彩らせるのだ。ちなみに関興らに殺されるザコ敵は演義オリジナルキャラがほとんどである。 また、完全なオリキャラとして周倉も挙げられる。関興・張苞は一応史実にも登場するが、周倉は完全に架空武将。しかし周倉は関羽の配下として大活躍し、物語に華を添えている。史実武将である悳を捕らえるという功績もあげている。 翻って呂義。彼の登場で物語は面白くなったか? いや、そんなことは無いだろう。すると、ストーリーを面白くするために呂義が登場したとは考えにくいのである。そうなると別の要因を考えなければなるまい。 2.蜀を大きく見せる 諺で“枯れ木も山の賑わい”というものがある。演義で主役のくせに年々ショボくなっていく蜀陣営。そんな蜀がいよいよ宿命のライバル魏を倒すために出陣するのである。この出陣を豪勢に見せるため、人数だけでも多く揃えようという事で、呂義が急遽架空の世界から駆り出されたのではなかろうか。 「これから北伐の出陣メンバーを読みあげるぞ!」というときに少ししか名前が出てこなかったら、読者に「何だよ、蜀は人がいないな」と思われてしまう(というか、実際そうなんだから仕方ないという話もある)。 そこで、架空でもいいから蜀将を大量生産することで、「おお、中身はよくわからんが、とりあえず人数は揃っているな」と読者に思いこませるのである。可能性としてはこちらの方が高いのではなかろうか。知名度の低い武将を羅列されても、逆に蜀の小粒度を示しているようで逆効果という話もあるが、それはさておく(爆)。 [北伐メンバーの詳細] 三国志演義で、北伐メンバーが読みあげられている部分は以下の通りである。
最初の方はともかく、中盤から後半にかけてのメンバーは知らない人も多いのではないか。他の箇所での活躍を見たことがない武将も垣間見える。正史の諸葛亮伝には、出師の表はあっても、北伐のメンバーを読みあげている箇所はどこにも無い。演義の作者はこれだけの人物をどうやって調べ出したのか。 正史三国志において、建興9(231)年、軍需輸送を担当していた李平(李厳は李平と改名していた)が食糧輸送の不備の責任逃れをしようと、諸葛亮を北伐から呼び戻した。帰国した諸葛亮が行った調査により李平の悪事が発覚し、激怒した諸葛亮らは李平の解任を要求した。以下がその文章だが、実は、これが演義の北伐メンバーの元ネタと考えられるのである。
下の表は武将の登場する順番をそのままに、正史と演義のメンバー表を比較したものである。
ちなみに、正史の欄の「↑・↓」は、演義で順番が入れ替わっている人物。「×」は演義では載っていない人物。演義の欄の「太字斜線」は演義のみ載っている人物である。こうしてみると、いくつかのことがわかる。 1.ほとんどの人物は、正史の順番と同じ順番で掲載されている。 →演義の作者がこの部分を丸ごとパクッたことがよくわかる。劉とケ芝以外の人物は、正史の順序のままで演義に掲載されている。劉の席次が下がったのは彼が演義では大した活躍をしていないため。ケ芝の席次が上がったのは、彼は北伐開始直後に趙雲の副将として活躍するためであろう。 2.誤植が多い →正史を演義に転用するにあたり、基本的に細かい部分は気にしなかったということだろう。ほとんどは無視しても問題ないほどの些細な間違いであるが、劉巴は「前将軍」で「征南将軍」になっている。将軍号を同時に2つ持つとは凄い男だ(笑)。また、演義の楊儀は綏軍将軍となっているが、彼が正史で綏軍将軍になったのは230年のこと(出師の表は227年で、李平失脚は231年)。深く考えずに正史を転載したことがバレてしまっている。まあ読者は普通気にとめないと思うが。 3.少しは演義ストーリーとの関連による修正がされている。 →姜維と費は演義では出てきていない。これは、北伐開始時点で姜維は蜀陣営ではないため。また、演義で費が成都の留守番役になっているためである。さすがにここを無視して転載してしまうと、物語として致命的な矛盾になってしまう。 4.演義中心メンバーとなっている。 →正史では劉・魏延・袁…と進んでいくが、演義では魏延と袁の間に趙翼ら9名の演義活躍武将が配置されている。彼らは正史の北伐ではあまり活躍しないが、演義で活躍している武将だ。ケ芝同様、メンバー表の最初に書いたほうが読者の印象に残りやすいということでノミネートされたのであろう。 しかし、こう考えると呂義の謎はさらに深まってしまう。枯れ木も山の賑わいといっても、わざわざオリジナル武将をスタメン5番で起用した意味がわからなくなってしまう。名前だけの登場ならば、スタメン表の下の方にでも書けばよいのである。また、彼だけがオリジナルというのも納得がいかない。正史の22名に演義活躍武将12名を加えて34名。姜維と費?を削っても32名である。ここに架空武将呂義を加えて33名にしたのは何故だろう。どうせなら架空武将を増やして50名くらいにしても良さそうなものだ。 [呂義と呂乂] 呂義を架空武将として登場させる意味合いは限りなく低いという結論に達した。ここで逆転の発想。呂義が架空武将であるメリットが無いということは、実は呂義は架空武将ではなかったということを示すのではないだろうか。 羅貫中も人の子。長編小説をまとめ上げるにあたり、いくつかの矛盾を抱えている。例えば張は長坂坡で一度死んでいる(笑)。関羽配下の胡班は一箇所だけ呉班と表記されている。王平も謀反した魏延を攻撃するシーンでは何平と表記されている(何平は王平の昔の名前)。呂義も別の武将が何らかの原因で間違って表記されたものかもしれないのである。 立間祥介・岡崎由美・土屋文子氏が訳された三国演義辞典の日本語訳、「三国志演義大辞典」の呂義の項目は以下のように書かれている。
そこで、続けて呂乂の項を見ると、そこにはこうある。
ちなみに、この本は毛宗崗本を底本にして、嘉靖本を参考にしている。嘉靖本とは、羅貫中がまとめた三国志通俗演義を刊本の形で出版したもので、現存するテキストでは最古のもの。毛宗崗本とは清代の毛宗崗が少し手を加えたもので、普通「三国志演義」と言えば毛宗崗本のことを指すと考えてもらって良い。 三国志演義大辞典によれば、呂義は呂乂(呂凱とは別人)と同一人物であると書いてある。しかし、この資料では正史の呂乂が演義で呂義となっている根拠が見当たらない。本当に呂義と呂乂は同一人物なのであろうか。単なるモデルということは考えられないだろうか。そこで、呂義が呂乂である根拠を考えてみることにしよう。 [呂義と呂乂の接点 in 演義] 三国志演義において定遠将軍・領漢中の太守である呂義は李恢の副将を務めている。比較としてモデル(?)となる呂乂の伝を見てみよう。以下は呂乂伝の前半部である(後半は諸葛亮死後の話なので省略)。
呂義との共通点は「漢中太守である」ことと「北伐に関与している」ことである。漢中太守というのは大きなポイントである。だが、呂義が定遠将軍という武官的な要素が強いのに対し、呂乂は文官の色が強い(蕭何と似たような功績である)。これだけでは呂義=呂乂という確信は持てない。 しかし、三国志演義は嘉靖本と毛宗崗本だけではない。詳しくは「『三国志演義』版本の研究」という本に載っているが、三国志演義には現存するだけで30数種類の版本が存在しているのである。そこでそれぞれの版本において呂義がどのように書かれているのかを調べてみることにした。すると、呂義=呂乂説を裏付ける証拠が見つかった。 これは「新刊按鑑漢譜三國史傳繪象足本大全」の中の「新刊通俗演義三国志傳八巻」の一部である。2行目から3行目にかけて見ていただきたい。 “副将定遠将軍領(漢)中太守呂義 字季陽南陽人也” と書いてある。「字が季陽」で「南陽の人」と言えば、まさに呂乂のことである。呂義と呂乂が一本の線で結ばれたわけだ。すると今度は、呂義と呂乂がどうしてつながったのだろうかという疑問が湧いてくる。 [呂乂が呂義になったワケ] 三国志傳の記述を見ると、「ひょっとしたら、呂義はもともと呂乂で、どこかで間違って呂義と表記されるようになったのではないか」と考えられる。しかし、パッと見ただけではどうして呂乂が呂義と書かれるようになったのか全く不明である。 この解決のヒントとして僕が考えたのは簡体字である。簡体字では「義」の字は「」と表記される。つまり、 ”本当は「呂乂」だったのが、「呂=呂義」と書き間違えられた!?” という可能性が濃厚になる。演義では誤記が多いことを考えれば納得もいくだろう。 予想される反論として「簡体字とは、中華人民共和国が成立したときに文字の改革が起こり、1956年に公布された漢字簡化方案により規定された文字である。時代を取り違えるにも程がある!」というものが考えられる。 確かに法制化された簡体字の定義はそうである。しかし、簡体字は1956年になっていきなり創造されたものではない。中には古くから利用されてきた略字が簡体字として公式に認可されたものもあるのだ。 例えば、三国志演義の底本の1つとされる三国志平話(1320年代に刊行)には「劉」の簡体字が用いられている。三国志平話の略字については、茨城大学の二階堂先生のウェブサイト『電気漢文箱』でそれについての論文が見られるので、参考にしていただきたい。 つまり、「義」の簡体字である「」が当時から使われている字だという可能性がないわけではないということである。現存する三国志テキストの中で最も古いのは1494年の序を持つ嘉靖本である。この当時に本当に「」の字は使われていたのだろうか? これについては以下の資料を見ていただきたい。 これは成化年間(1465〜87)に刊行された花関索伝であるが、中段左から5行目に「」の字が使用されている。すなわち、この時代にはすでに「」が使われていたことを示す。「呂乂」が「呂」→「呂義」と書き間違えられた可能性は一気に高まった。ちなみに、「劉」の簡体字もこの文章の中に見て取れる。 [結論] 元末明初(1300〜1400年頃)の人、羅貫中は三国志演義の基となる「三国志通俗演義」をまとめた。彼は演義の北伐メンバーを記述するときに、参考として正史李厳伝を引用した。しかし、それだけでは人数が物足りないので、演義の北伐で活躍するメンバーを優先的に上位に載せることにした。そこには正史の北伐で縁の下の力持ちだった呂乂の名もあった。しかし、時代を経るに従い、テキストは汚れやら誤記やらで原文とは異なる形となり、「呂乂」は「呂」になってしまう。 以後、「呂」が使われ続け、繁体字を使用するときにも「呂義」と表記されるようになってしまった。嘉靖本や他の版本でも「呂義」が踏襲され、かくして「呂乂」は「呂義」として広く知れ渡ることになってしまうのである。 これが呂義の誕生ストーリーと考えられる。
呂義
彼は「1点」の過ちから生まれた男なのである。
完
[課題] 今回のレジュメについて、説得力に欠ける点が2つある。 ・ちゃんと呂乂と表記してある版本が見つかっていない →「もともと作者は呂乂を書きたかった」という論拠が不十分。 ・呂義を簡体字を使用して呂と表記している版本も見つかっていない →「『呂乂』→『呂』→『呂義』の流れ」という論拠が不十分。 この2つが発見されれば呂義=呂乂を裏付ける完璧な証拠となるであろう。 また、呂義が呂乂のことだったとして、何故スタメン5番で名が出ているのかということについては、相変わらず謎のままである(呂乂も大した活躍をしているわけではないので、わざわざ上位に名を記す必要は無いはず)。 |