梁甫吟のこころ (旧題=諸葛亮が管仲・楽毅に見たもの)

[梁父吟とは?]

 蜀書 諸葛亮伝に、以下のような一節があります。

 諸葛亮はみずから農耕にたずさわり、好んで『梁父吟』を歌ってくらした。身長は8尺もあり、つねに自分を管仲・楽毅に擬していたが、当時の人で認めるものはいなかった。

 ここで諸葛亮が歌った「梁父吟」は、「芸文類聚」巻十九に諸葛亮作としておさめられています。ですが、明治書院の「中国の名詩鑑賞」には、「梁甫吟」という名の同じ詩が漢代の作者不明のものとしておさめられているのです。
 正史では「梁父吟」とあるのに、こちらでは「梁甫吟」となっていますが、別物を指しているのではないと思われます。平凡社の「史記」の封禅書に、「梁甫(父)」という記述があったので、梁父と梁甫はどちらも同じ地名で、表記法が一定でないということなのでしょう。ちなみに、梁甫は斉にある山の名前で、封禅の儀式を行う場所とされているところです。なお、このレジュメでは記述を梁甫吟で統一していきたいと思います。何故って王が好きだからですよ(謎)。

[梁甫吟の解釈]

 さっそく梁甫吟を読んでみましょう。ここは『諸葛孔明99の謎』という本から引用(本当は一般書からの引用はしたくなかったのですが・・)させてもらいますが、

歩して斉の城門を出て 遥かに蕩陰里を望む 里中に三墳有り 累々として正に相似たり

問う 是れ誰が家の墓ぞ 田彊 古冶子 (公孫接) 力は能く南山を排し 又能く地紀を絶つ

一朝 讒言を被り 二桃 三士を殺す 誰が能く此の謀を為す 国相斉の晏子(晏嬰)なり

[訳] 斉の城門を歩み出て、遥かに蕩陰里を望み見ると、里中に三つの墳墓があり、似たような形で連なっている。誰の墓かと質問してみると、田開彊、古冶子、公孫接(五言句にするためにこの公孫接は詩中では省略されている)のだと言う。彼らの力は南山をも押しのけ、天地をつなぐ大綱をも断ち切るほどであった。が、ひとたび讒言にあい、二つの桃でこの三士は殺されてしまった。一体誰がこのような計略をめぐらしたのか。他でもない、斉の宰相晏子である。

 さて、どうして桃で人が死ぬのでしょう。別に、種にシアン酸が含まれていたと言うわけではありません。出典が見つからなかったので、再び『諸葛孔明99の謎』の文章を引用しますと、

“晏嬰(晏子のこと)に対して礼を欠いていた三士を、晏嬰は主君景公に讒言して処分するお墨付きをもらいます。晏嬰は二つの桃を三士に与え、勲功の多いものが食べよと言い、先に公孫接と田開彊が桃をとるものの、古冶子に返せと言われた二人は自分達が古冶子に劣ることを認め、恥じて自害します。ついで、古冶子も自分だけ生き残ったのを恥として自害します。この詩は表向きは三人の勇士を悼むものですが、主題は、力ばかり強くて無礼な男を桃で殺した知恵者である晏嬰を称える詩なのです。”

ということなのです。要するに、陰険な謀略バンザイという詩ですね。大河ドラマの毛利元就のようです(ちなみに僕はあのドラマを見て、陰険な元就が好きになった人です)。
 ただ、この桃の話は、ギリシャ神話に見られる「不和のリンゴ」の話に似たヒロイック・サーガ(?)的要素もあり、本当に晏子のエピソードなのかは不明なところです。

 ともかく、こんな詩を好んだ諸葛亮の心中はどのようなものだったのでしょう?案外、

「殺るときは 手を使わずに 知をつかえ」

 みたいなダークマインド心の標語があったのかもしれませんね。

[粛清魔王・諸葛亮]

 謀略バンザイの歌を歌い続けてきた諸葛亮ですが、劉備の配下になった彼は後方支援を担当することになります。蜀侵攻のときも最初諸葛亮は荊州の留守番を任されていましたし、漢中侵攻のときも成都で食糧と軍事力の充足を担いました。前漢で言えば蕭何の役割です。なかなかダークオーラを発する場面がありません。
 しかし、そんな諸葛亮の立場も一変します。戦略担当の統は蜀侵攻のときにで戦死。計略担当の法正も、劉備が漢中王になった翌年に死去します。劉備(ひいては蜀という国家)の補佐を一人で請け負うことになってしまったのです。
 かくして、若き頃にあこがれた晏子をも凌ぐ、彼の大活躍が始まるのです。

 次に、諸葛亮が実践した数々の謀略の中から、とりわけインパクトのあるものを紹介しましょう。

[劉封・彭の場合]

 手元に正史蜀書と三国志演義があると理解しやすいのですが、関羽が殺された後、劉封と彭が処刑されるいきさつを正史と演義(毛本)で比較してみると面白いことがわかります。いくつか列挙すると、

演義

正史

廖化が「関羽を見殺しにした劉封・孟達を誅して欲しい」と言ったので、劉備は直ちに捕らえようとした。が、諸葛亮が「急ぐとマズいので、2人を引き離してからにしましょう」と進言する。

→劉封を殺そうとする主体は劉備で、諸葛亮はその補助

関羽を見殺しにした劉封を劉備は怨んでいるが、呼び出しもしていないし、人事異動もしていない

→劉備はこの時点で殺そうとは思っていない

は旧友である孟達粛清の話を聞き、それを知らせに行こうとするが、使者が馬超に捕まる。謀反に気がついた馬超の誘導訊問により、最近重用されない愚痴を言い、謀反を馬超に持ちかける。馬超がこれを上奏したため、彭は処刑。

→孟達への機密漏洩、愚痴、謀反と悪いことだらけ

諸葛亮は彭を表向きはもてなしていたが、内心よく思わなかったため、劉備に内密に色々と吹き込んだ。そのため劉備は彭を左遷し、その不満から馬超に愚痴を言い、謀反を持ちかけた。馬超がこれを上奏したため、彭は処刑。

→謀反は悪いことだが、原因を作ったのは諸葛亮の私怨

敗走してきた劉封に激怒した劉備が斬首を命令し、劉封は殺される。が、孟達の書簡を破ったことを聞き、後悔して病に臥せった。

→劉封処刑は、劉備の一時的な感情による勇み足

敗走した劉封を、劉備は孟達に対する圧迫侵害と関羽を救援しなかったことで責めた。諸葛亮は、劉封が剛勇なため代替わりしたあと制御できなくなると判断し、この際彼を除くように進言した。劉封は自害し、劉備は涙を流した。

→劉封が死んだのは、諸葛亮の進言のためである

などがあります。他に、演義に書かれていないが正史には書かれている細かい点としては、

・そもそも孟達と劉封は仲が悪く、劉封が孟達の軍楽隊を没収したのが孟達謀反の要因である。

・馬超は流浪の末、蜀に帰順したものであり、いつも自分の身について危惧の念を抱いていたから、彭の言葉を聞くと驚き、この件を上奏した。

→蜀の内部には派閥の軋轢があり、外様の扱いは悪かったので、馬超も(彭には)不満分子と思われていた。(蜀の派閥は大きく荊州派と益州派に分けられるが、諸葛亮は自分のグループの地盤固めのため、他勢力の削減を図っていたのではなかろうか? 諸葛亮死後に権力を握った費・姜維は全て諸葛亮の幕府の者である。しかも費も荊州派)。

 これだけ見ても、実際の諸葛亮は影で色々と暗躍していることがわかります。また、演義の「聖人孔明」を作るため、正史の出来事を演義がうまく隠している配慮(?)も伺えます。脚色は小説家の真骨頂とはいえ、彭に全てのマイナスポイントが押し付けられてしまい、同情を禁じえません。
 ちなみに派閥抗争からの密告&処罰は、諸葛亮死後の費VS楊儀と似た構図です。弟子達も師匠からちゃんと学んでいたようですね。好好。

[王連の場合]

 半分ネタですが、蜀書 王連伝に次のような記述があります。

当時、南方の諸郡が服従しないので、諸葛亮はみずから征討に赴こうとした。王連は諫言して、「あそこは不毛の荒地であり、風土病の多い土地です。一国の期待を担う方が危険を冒してでかけるのはよろしくありません」と主張した。
諸葛亮は諸将の才能が自分に及ばないのを考慮したので、どうしても行く決意であったが、王連が言葉を発するたびに懇願するので、長い間都にとどまっていた。
たまたま王連は亡くなった。

 “たまたま亡くなった”というのはどういうことでしょう。

「(諸葛亮に歯向かった人間は、本当は適当な理由をつけられて処刑されちゃうんだけど、この人の場合は病気か何かで)たまたま亡くなった」というように、前段が省略されているのでしょうか(爆)。

 ちなみに原文では「会連卒」となっています。『全訳漢辞海』では「会」は「たまたま」か「かならず」の意味であり、ここでは「たまたま」と訳すのが多分適当のようです。

松竹梅様、情報ありがとうございます!

[管仲と楽毅と晏嬰]

 さて、諸葛亮が晏子の謀略に憧れて実践したのはわかりましたが、諸葛亮は自らを管仲や楽毅に比していたともあります。管仲は春秋時代の名宰相。楽毅は戦国時代の名将です。諸葛亮は自分が文武両道だといいたかったのでしょうか?
 いいえ。諸葛亮が憧れたのは、管仲の政治力や楽毅の軍事能力ではないと僕は思うのです。

 管仲は特に経済面で優れた政治家で、自信も莫大な富を持っていましたが誰も彼がおごっていると思わず、管仲も主君桓公に尽くしました。桓公も支配者にありがちな猜疑心を持つことなく管仲を信用したのです。

 楽毅は自分を用いた燕の昭王の死後、恵王に疑われて趙に亡命しますが、恵王は趙が楽毅を用いて燕に攻めてくるのではないかと恐れ、楽毅に謝罪・詰問の手紙を送ります。これに対する楽毅の返書は、自分を用いてくれた昭王に対する忠義に満ちたものであり、この返書を読んだ恵王は楽毅に対する評価を改め、楽毅の息子を再び昇進させたとあります。

 つまり、諸葛亮が管仲・楽毅に見たのは「人柄」だったのではないでしょうか。 

 ちなみに、晏嬰も、司馬遷の『史記』の中で人柄を絶賛されており、孔子は『論語・公冶長』で、彼を人柄的に評判の高い賢者と評しています。

[梁甫吟のこころ]

 平和な荊州で農耕をして暮らしていた諸葛亮。諸葛亮にとって管仲・楽毅とは国の経済を発展させて強国にのし上がらせた宰相でも、大軍を統率して敵国を討伐した将軍でもありませんでした。管仲・楽毅に諸葛亮が見出したものは人柄であり、正しい君臣関係だったのです。これに梁甫吟のこころが加わったのです。

 「人柄」と「謀略」はイメージが結びつきませんか? そんなことはありません。諸葛亮の生き方を振り返ると、彼の人生のいたるところに梁甫吟のこころが見えてこないでしょうか。多少のマイナスも、人柄がよければ周囲は評価するのです。

諸葛亮の刑罰や政治は厳格だったのに民衆が愛したのは、何故ですか?

諸葛亮に処罰された李厳・廖立が、彼の死に涙したのは何故ですか?

魏や呉にさえも諸葛亮信奉者がいたのは何故ですか?

陰険デ密告好キデモ、人柄ガ良ケレバO.K.デスカ??

 

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