[梁父吟とは?] 蜀書 諸葛亮伝に、以下のような一節があります。
ここで諸葛亮が歌った「梁父吟」は、「芸文類聚」巻十九に諸葛亮作としておさめられています。ですが、明治書院の「中国の名詩鑑賞」には、「梁甫吟」という名の同じ詩が漢代の作者不明のものとしておさめられているのです。 [梁甫吟の解釈] さっそく梁甫吟を読んでみましょう。ここは『諸葛孔明99の謎』という本から引用(本当は一般書からの引用はしたくなかったのですが・・)させてもらいますが、
さて、どうして桃で人が死ぬのでしょう。別に、種にシアン酸が含まれていたと言うわけではありません。出典が見つからなかったので、再び『諸葛孔明99の謎』の文章を引用しますと、
ということなのです。要するに、陰険な謀略バンザイという詩ですね。大河ドラマの毛利元就のようです(ちなみに僕はあのドラマを見て、陰険な元就が好きになった人です)。 ともかく、こんな詩を好んだ諸葛亮の心中はどのようなものだったのでしょう?案外、
みたいな [粛清魔王・諸葛亮] 謀略バンザイの歌を歌い続けてきた諸葛亮ですが、劉備の配下になった彼は後方支援を担当することになります。蜀侵攻のときも最初諸葛亮は荊州の留守番を任されていましたし、漢中侵攻のときも成都で食糧と軍事力の充足を担いました。前漢で言えば蕭何の役割です。なかなかダークオーラを発する場面がありません。 次に、諸葛亮が実践した数々の謀略の中から、とりわけインパクトのあるものを紹介しましょう。 [劉封・彭の場合] 手元に正史蜀書と三国志演義があると理解しやすいのですが、関羽が殺された後、劉封と彭が処刑されるいきさつを正史と演義(毛本)で比較してみると面白いことがわかります。いくつか列挙すると、
などがあります。他に、演義に書かれていないが正史には書かれている細かい点としては、
→蜀の内部には派閥の軋轢があり、外様の扱いは悪かったので、馬超も(彭には)不満分子と思われていた。(蜀の派閥は大きく荊州派と益州派に分けられるが、諸葛亮は自分のグループの地盤固めのため、他勢力の削減を図っていたのではなかろうか? 諸葛亮死後に権力を握った費・・姜維は全て諸葛亮の幕府の者である。しかも費もも荊州派)。 これだけ見ても、実際の諸葛亮は影で色々と暗躍していることがわかります。また、演義の「聖人孔明」を作るため、正史の出来事を演義がうまく隠している配慮(?)も伺えます。脚色は小説家の真骨頂とはいえ、彭に全てのマイナスポイントが押し付けられてしまい、同情を禁じえません。 [王連の場合] 半分ネタですが、蜀書 王連伝に次のような記述があります。
“たまたま亡くなった”というのはどういうことでしょう。 「(諸葛亮に歯向かった人間は、本当は適当な理由をつけられて処刑されちゃうんだけど、この人の場合は病気か何かで)たまたま亡くなった」というように、前段が省略されているのでしょうか(爆)。 ちなみに原文では「会連卒」となっています※。『全訳漢辞海』では「会」は「たまたま」か「かならず」の意味であり、ここでは「たまたま」と訳すのが多分適当のようです。 ※松竹梅様、情報ありがとうございます! [管仲と楽毅と晏嬰] さて、諸葛亮が晏子の謀略に憧れて実践したのはわかりましたが、諸葛亮は自らを管仲や楽毅に比していたともあります。管仲は春秋時代の名宰相。楽毅は戦国時代の名将です。諸葛亮は自分が文武両道だといいたかったのでしょうか? 管仲は特に経済面で優れた政治家で、自信も莫大な富を持っていましたが誰も彼がおごっていると思わず、管仲も主君桓公に尽くしました。桓公も支配者にありがちな猜疑心を持つことなく管仲を信用したのです。 楽毅は自分を用いた燕の昭王の死後、恵王に疑われて趙に亡命しますが、恵王は趙が楽毅を用いて燕に攻めてくるのではないかと恐れ、楽毅に謝罪・詰問の手紙を送ります。これに対する楽毅の返書は、自分を用いてくれた昭王に対する忠義に満ちたものであり、この返書を読んだ恵王は楽毅に対する評価を改め、楽毅の息子を再び昇進させたとあります。 つまり、諸葛亮が管仲・楽毅に見たのは「人柄」だったのではないでしょうか。 ちなみに、晏嬰も、司馬遷の『史記』の中で人柄を絶賛されており、孔子は『論語・公冶長』で、彼を人柄的に評判の高い賢者と評しています。 [梁甫吟のこころ] 平和な荊州で農耕をして暮らしていた諸葛亮。諸葛亮にとって管仲・楽毅とは国の経済を発展させて強国にのし上がらせた宰相でも、大軍を統率して敵国を討伐した将軍でもありませんでした。管仲・楽毅に諸葛亮が見出したものは人柄であり、正しい君臣関係だったのです。これに梁甫吟のこころが加わったのです。 「人柄」と「謀略」はイメージが結びつきませんか? そんなことはありません。諸葛亮の生き方を振り返ると、彼の人生のいたるところに梁甫吟のこころが見えてこないでしょうか。多少のマイナスも、人柄がよければ周囲は評価するのです。 諸葛亮の刑罰や政治は厳格だったのに民衆が愛したのは、何故ですか? 諸葛亮に処罰された李厳・廖立が、彼の死に涙したのは何故ですか? 魏や呉にさえも諸葛亮信奉者がいたのは何故ですか? … … 陰険デ密告好キデモ、人柄ガ良ケレバO.K.デスカ??
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