1. 序 景耀6(263)年夏、魏は大いに軍勢をおこし、征西将軍ケ艾、鎮西将軍鍾会、雍州刺史諸葛緒に命じて、数街道から同時に進攻させた。このため、蜀は左右の車騎将軍張翼と廖化、輔国大将軍の董厥らを派遣してこれを防がせた。年号を炎興と改めた。 これが蜀滅亡時の簡単なあらましである。ここで注目したいのは後主(以下、劉禅と記す)が採用した周の策である。今回のレジュメでは周が献策した降伏という選択肢について考えてみたい。 2. 周について 『三国志演義』においては北地王劉ェが「死に際を知らぬ腐れ儒者なぞ国家の大事に口出しするな」と大喝し、結局劉ェは犬死にするシーンがあったが、周とはいかなる人物であろうか。正史からエピソードを列挙してみると・・
まさに学者・ご意見番といったところである。周のイメージを現代で言えば、「ハト派で研究好きで、たまにテレビに出演して時事問題を評論する」教授といったところか。どこの大学にも1人くらいはいそうである。ただし、周の特技である「天文を読む」は現代人にはできないだろう(笑)。 3. 魏への対応策をめぐる諸議論 正史三国志『蜀書』周伝によると、ケ艾が成都に接近したときの対応案として出されていたのは、主に、
の2つであった。それに対する周の反論は以下のとおりである。 3.1 呉に逃げることへの反論
ここから周は呉をまったく認めていなかったことがわかる。実際、蜀と呉が連合して魏を破った赤壁の戦いは遠い過去の話で、当時は呉蜀の共同戦線は毎回失敗に終わっていた。唯一勝機があったかもしれない諸葛誕の反乱時にも、寿春を守った諸葛誕・長安に迫った蜀の姜維・寿春の救援に向かった呉の朱異ともに魏に破れてしまった。これは完全に実力の違いである。 3.2 南中に逃げることへの反論
ここでカッコ内の文は私の解釈である。裏付けの資料を引くまでもなく、この5つはもっともな意見である。特にAとDの意見に関しては張魯が曹操に降伏した時のいきさつを連想することができる。まあ、もっとも張魯が厚遇されたのは大量の信者を抱える教祖サマだったということもあるのだが・・。 3.3 降伏受理の可能性に関する議論 周が降伏策を進言すると、ケ艾が果たして降伏を受理するかと疑問を呈する者もいた。それに対する周の反論は以下のとおりである。
@Aについてはケ艾の弱点を突いている。兵糧も少ないケ艾の別働隊にとって、降伏を宣言した相手を攻撃するのはデメリットしかない。窮鼠猫を噛み、蜀による手痛い反撃の可能性もあるし、一度降伏宣言を聞けば魏兵の気も緩むであろう。ただ、Bに関しては「腐れ儒者」呼ばわりされても仕方ない考えである。理屈による説得が通じていれば古来から戦乱は起こらないはずだし。これに誰も反論できなかったのは少し情けない。 4. 何故彼らは戦わなかったのか 演義で周が腐れ儒者呼ばわりされたのは、戦乱の時代において「降伏」という選択肢を勧めたからだが、よく考えてみれば他の重臣たちも呉と南蛮のどちらに逃げるかを協議していただけで、戦うということを言っている者がいなかった。劉ェも正史では、演義ほど激しく抗戦を主張していない。果たして蜀の戦闘能力はどのようなものだったのだろうか。 4.1蜀の兵力 『蜀書』後主伝によると、劉禅がケ艾に降伏した後で送った官民の戸籍簿によると、
となっている。ちなみに、魏は戸数64万戸、人口440万人である。 4.2 蜀の兵糧事情 そして何より、一番問題となっているのが生産力。ここでは兵糧の問題である。兵糧40万斛というのが多いか少ないかはバッと見ただけではわかりにくいかもしれないので、『魏書』ケ艾伝の記述を借りて説明すると、ケ艾は准水南域(寿春近辺)に屯田することを献策し、そのときに、
ということを述べている。ここから要点ををまとめると、
となる。また諸葛誕が寿春(准水流域の都市)に15万の兵で篭城したとき、近くの兵糧を集めたが7ヶ月で兵糧が尽きたと『魏書』諸葛誕伝にあるが、これはケ艾が予測した准水流域の米の生産量とほぼ一致する。つまりケ艾の屯田案は進言どおり実行され、計算どおりの成果が出たと考えられる。また、補注による裏付けからも妥当な数値と仮定できる。これについて2つの点から考えたい。 4.2.1 降伏時の備蓄軍糧 まず上のBに注目したい。当時の蜀の武装兵は10万2千だった。これを維持するのに必要な兵糧は年間約610万斛となる。対して、降伏時の備蓄はまだ冬なのに40万斛しか残っていない。実は、収穫した兵糧を貯めこんだ蜀の前線基地である関城を鍾会に落とされたのである。まさに、刈り取ったばかりの兵糧にのしをつけて魏に進呈したようなものだ。 4.2.2 蜀の生産力(上の@・Aを参考) 涼・雍地区の生産力が1.7斛とあるが、この地区の主力は米ではなく麦である。 一方、蜀は米も取れて肥沃な土地と諸葛亮が言っているので蜀の生産力はこれよりは多いはず。日本人同様、蜀人もお米族なのである。ただ、魏の良質の屯田で5斛だが蜀は盆地で日照時間が少ないから生産性が落ちるので、約3斛と考えてみる(※補注5)。 5. 総括 小難しい話ばかりしてきたので、最後くらいは簡単にしましょう(口調も変わる)。要するに蜀の状況は・・
戦えない、守れない、逃げられない。あとは降伏するか死ぬしかなかったのです。 貴方は御旗のもとに死ねますか? ・・・「国に殉じる」と口で言うのは簡単です 周は腐れ儒者ですか? ・・・口先三寸ではなく、状況を的確に判断している正論です 成都は燃えているか? 否、帝都の平和は周が守ったのです ・・のはずが、おバカな軍人姜維が奇策を思いつき、失敗したため成都に内乱が発生し、成都は蹂躙されてしまいましたとさ。 あははーっ・・ 完 参考文献
「斛(コク)」は体積の単位。日本でいうところの「石(こく)」に相当する。ただし、当時の中国で「石」と書けば重さの単位(この場合、セキと読む)なので混同しやすい。おそらく昔の日本人が斛と石を混同し、「石」を「こく」と読むようになったのではないか。ちくま学芸文庫の正史三国志では「コク」を「斛」ではなく「石」と表記(例:兵糧40万石)しているが、本来は「斛」が正しい。ちなみに日本でいう「石(こく)」は体積をあらわすらしい。 1石 = 10斗 = 100升 = 1000合 ( ≒ 150 kg ) [戦国時代の日本の場合] 「合」はご飯を炊くときによく出てくる単位である。そういえば、「5合」って「ごごう」ではなく、「ごんごう」って発音しません?うちだけかな? 米田賢次郎氏の著書「中国古代農業技術史研究」の中で引用している西嶋定生氏の論文「魏の屯田制〜特にその廃止問題をめぐって〜」(『中国経済史研究』所収)によると、『晋書』食貨志から屯田兵1人あたり50畝の耕地が割り当てられたと計算できる。屯田兵4万が各自50畝づつ耕作し、年間500万斛の徴収が得られるので、1畝あたりの徴収量は2.5斛になる。魏の屯田兵の徴収率が50%(つまり5公5民)なので、逆算して生産量は1畝あたり5斛となる。 水田の3分の1とは少なすぎる気もするが、『漢書』食貨志によると、「春秋戦国時代の魏の生産力は1畝あたり1.5斛」とある。魏は黄河流域の国であり、当時の中でも生産力は高かったに違いない。漢代になって農耕技術が発達し、(画期的な改革「代田法」で30〜60%増)生産量が飛躍したとは言え、涼・雍地区は米より生産性の劣る麦を植えていたことを考えれば、1.7は決して少ない数値ではないと思う。 『蜀書』魏延伝によると、魏延は長安急襲作戦を立案するとき、その期間を10日と予測し、5千の兵と5千斛の兵糧を要求している。これから計算すると1万の兵を1年維持するのに36万斛必要となる。もっとも、魏延は急襲するつもりなので兵糧を多くは持てず、長安陥落後に貯蔵庫から兵糧を得ようと当て込んでいたことから、この36万斛は最低ラインということだろう。ケ艾の言う「60万斛」は決して大きい数字ではない。 『蜀書』諸葛亮伝で諸葛亮は「15頃(けい)のやせ田がある」と言っている。15頃は1500畝にあたる。一方、諸葛亮は丞相の位にあり、後漢の制度を継承していれば、月当りの俸禄は350斛だった。諸葛亮はつましく、田が全て俸禄によるものであると考えれば、年間4200斛を1500畝で生産したことになる。これより1畝あたり2.8斛となり、蜀の田畑の生産力を3と仮定するのはそれなりに妥当であろう(ちょっと多目かもしれない)。 学研の「歴史群像 三国志上・下巻」によると魏の屯田では税率が50%だった。高利に見えるが、当時の地主が小作民から徴収する割合と同程度だった。屯田からの莫大な収入のおかげで、一般民衆の税率はわずか1%だった(!)。・・なので、魏・蜀両国全体の生産量を同じ計算法を用いて計算し、比較するのは厳密に言えば間違っている(汗)。まあ、概算ということで勘弁して下さい。 学研の「歴史群像 三国志下巻」に詳しい話が掲載されている。一読の価値があろう。 |