成都は燃えているか

1. 序

 景耀6(263)年夏、魏は大いに軍勢をおこし、征西将軍ケ艾、鎮西将軍鍾会、雍州刺史諸葛緒に命じて、数街道から同時に進攻させた。このため、蜀は左右の車騎将軍張翼と廖化、輔国大将軍の董厥らを派遣してこれを防がせた。年号を炎興と改めた。
 冬、ケ艾は緜竹県において衛将軍の諸葛瞻を撃破した。後主劉禅は光禄大夫の周の策を用いてケ艾に降伏し、かくして華の蜀漢大帝国は終焉の時を迎えた。まことにもって無念の極みである。(正史三国志蜀書後主伝より抜粋。一部編集)

 これが蜀滅亡時の簡単なあらましである。ここで注目したいのは後主(以下、劉禅と記す)が採用した周の策である。今回のレジュメでは周が献策した降伏という選択肢について考えてみたい。

2. 周について

 『三国志演義』においては北地王劉ェが「死に際を知らぬ腐れ儒者なぞ国家の大事に口出しするな」と大喝し、結局劉ェは犬死にするシーンがあったが、周とはいかなる人物であろうか。正史からエピソードを列挙してみると・・

@:古代への愛好心が強く、学問に精を出し、貧しいことを気にしなかった。
A:いつも書物を朗唱し、一人でニコニコと笑っていた。
B:書簡に巧みで、天文の解釈に秀でていたが、異変に関心がなかった。
C:劉禅がひんぱんに遊覧を行うので、諌めた。
D:姜維が出兵を繰り返し、民衆が疲弊していたので、それを批判する『仇国論』を書いた。
E:政務には関わらなかったが、その学識・品行により大問題について意見を求められた。
F:身長は8尺(185〜190cm前後)もあったらしい。
G:無口でニコニコとしていて背が高い・・NHK「できる○な」のノッ○さんだ!

 まさに学者・ご意見番といったところである。周のイメージを現代で言えば、「ハト派で研究好きで、たまにテレビに出演して時事問題を評論する」教授といったところか。どこの大学にも1人くらいはいそうである。ただし、周の特技である「天文を読む」は現代人にはできないだろう(笑)。

3. 魏への対応策をめぐる諸議論

 正史三国志『蜀書』周伝によると、ケ艾が成都に接近したときの対応案として出されていたのは、主に、

@:蜀は呉に対して本来同盟国の関係にあるから、呉に出奔するのが良い
A:南中の七郡が険阻で隔絶した土地で守りやすいので、南に逃走するのが良い

の2つであった。それに対する周の反論は以下のとおりである。

3.1 呉に逃げることへの反論

@:他国に身を寄せて天子でいられたものはおらず、臣下として服従しなければならない。
A:魏が呉を征服することはあっても、呉が魏を征服することは不可能である。
B:@Aより、呉が滅亡すれば降伏という屈辱を2度も受けることになる。よって小国の呉よりは大国の魏に降伏したほうがましである。

 ここから周は呉をまったく認めていなかったことがわかる。実際、蜀と呉が連合して魏を破った赤壁の戦いは遠い過去の話で、当時は呉蜀の共同戦線は毎回失敗に終わっていた。唯一勝機があったかもしれない諸葛誕の反乱時にも、寿春を守った諸葛誕・長安に迫った蜀の姜維・寿春の救援に向かった呉の朱異ともに魏に破れてしまった。これは完全に実力の違いである。
 また、演義では呉は蜀の救援に向かい、滅亡を聞いて退却しているが、正史は異なっている。一応救援に向かうものの、滅亡を聞いて火事場泥棒を企て、成都に進軍しようとしたのである。永安を守備していた蜀将羅憲は2000の兵で必死に防衛しながら魏に救援を求め、呉の名将陸抗率いる3万の軍勢を追い返した。
 この事実からも、ハッキリ言って呉は盟友とは言いがたい。さらに呉に降伏した場合、数年後に暴君孫晧が現れるため、長生きできる保証は無かったのである。「呉はやばい」というのは天文を読める周の予見だったのだろうか(笑)。

3.2 南中に逃げることへの反論

@:南方が服従したのは諸葛亮が軍事的圧力をかけたからであり、さらに毎年税を取り立てているので苦しみ怨んでいる。こちらが切羽詰って身を寄せようとすると、南方はおそらく反逆する。
A:魏が来襲したのは蜀の土地を得るだけが目的ではない(蜀政権の滅亡もも目的である)ので、南方に必ず追撃してくる。
B:もし南方に行けたとしても、外敵を防ぐ軍事費用等を蛮族から徴収せざるを得ず、結局蛮族が反旗を翻すことになる。
C:魏が蜀の土地を奪ったとき、劉禅が蜀を去ってしまえば土地の住民は完全に魏についてしまう。劉禅がとどまっていれば逃亡離反が防げる(反撃のときの呼応も可能)。
D:素直に降伏するのと、南方に逃げ、追い詰められてから降伏するのとでは魏の対応も異なってくる。素直に降伏すれば爵位・封土も得られるであろう。

 ここでカッコ内の文は私の解釈である。裏付けの資料を引くまでもなく、この5つはもっともな意見である。特にAとDの意見に関しては張魯が曹操に降伏した時のいきさつを連想することができる。まあ、もっとも張魯が厚遇されたのは大量の信者を抱える教祖サマだったということもあるのだが・・。

3.3 降伏受理の可能性に関する議論

 周が降伏策を進言すると、ケ艾が果たして降伏を受理するかと疑問を呈する者もいた。それに対する周の反論は以下のとおりである。

@:呉が服従していない以上、蜀の降伏を受け入れざるを得ない
A:一旦受け入れれば、その後は礼遇しないわけにはいかない
B:もし冷遇した場合、自分が古代のたてまえを説いて論破するつもりである

 @Aについてはケ艾の弱点を突いている。兵糧も少ないケ艾の別働隊にとって、降伏を宣言した相手を攻撃するのはデメリットしかない。窮鼠猫を噛み、蜀による手痛い反撃の可能性もあるし、一度降伏宣言を聞けば魏兵の気も緩むであろう。ただ、Bに関しては「腐れ儒者」呼ばわりされても仕方ない考えである。理屈による説得が通じていれば古来から戦乱は起こらないはずだし。これに誰も反論できなかったのは少し情けない。

4. 何故彼らは戦わなかったのか

 演義で周が腐れ儒者呼ばわりされたのは、戦乱の時代において「降伏」という選択肢を勧めたからだが、よく考えてみれば他の重臣たちも呉と南蛮のどちらに逃げるかを協議していただけで、戦うということを言っている者がいなかった。劉ェも正史では、演義ほど激しく抗戦を主張していない。果たして蜀の戦闘能力はどのようなものだったのだろうか。

4.1蜀の兵力

 『蜀書』後主伝によると、劉禅がケ艾に降伏した後で送った官民の戸籍簿によると、

戸数 28万戸
人口 94万人
武装兵 10万2千人
官吏 4万人
兵糧 40余万斛(コク)※補注1

となっている。ちなみに、魏は戸数64万戸、人口440万人である。
 この「兵力10万2千」を多いと見るか、少ないとみるか?・・結論から言えば、多すぎると思うのである。人口に対する兵力の割合は11%に達しており、一般に限度といわれる10%を超えている。ちなみに呉滅亡時の兵力の割合は10%、太平洋戦争末期の日本で13%なので、将官はともかく、一般兵士・民衆にとってはこの上ない疲弊であり、士気が大いに落ちていたことは否めない。兵は多ければ良いというものではないのである。
 また、全体の兵力は10万を超えていても、6万は北部を守り、残る4万も全部隊が成都を守っていたわけではない。演義を見るとケ艾率いる別働隊は少なく感じるが、正史によると1万人もいたので決して侮れる数ではない。

4.2 蜀の兵糧事情

 そして何より、一番問題となっているのが生産力。ここでは兵糧の問題である。兵糧40万斛というのが多いか少ないかはバッと見ただけではわかりにくいかもしれないので、『魏書』ケ艾伝の記述を借りて説明すると、ケ艾は准水南域(寿春近辺)に屯田することを献策し、そのときに、

@准水南域で屯田をすれば、その地域だけで毎年500万斛が軍糧として確保できる。
A准水南域の生産量は西(おそらく雍・涼州)の3倍に匹敵する。
B10万の兵の5年分の食糧は3000万斛である。

ということを述べている。ここから要点ををまとめると、

@准水近辺の良質の水田からは1畝(ホ)あたり5斛の収穫がある。(※補注2)
A対蜀戦線の地域では1畝あたり約1.7斛の収穫がある。
(※補注3)
B1万の兵の年間維持には60万斛の兵糧が必要である。
(※補注4)

となる。また諸葛誕が寿春(准水流域の都市)に15万の兵で篭城したとき、近くの兵糧を集めたが7ヶ月で兵糧が尽きたと『魏書』諸葛誕伝にあるが、これはケ艾が予測した准水流域の米の生産量とほぼ一致する。つまりケ艾の屯田案は進言どおり実行され、計算どおりの成果が出たと考えられる。また、補注による裏付けからも妥当な数値と仮定できる。これについて2つの点から考えたい。

4.2.1 降伏時の備蓄軍糧

 まず上のBに注目したい。当時の蜀の武装兵は10万2千だった。これを維持するのに必要な兵糧は年間約610万斛となる。対して、降伏時の備蓄はまだ冬なのに40万斛しか残っていない。実は、収穫した兵糧を貯めこんだ蜀の前線基地である関城を鍾会に落とされたのである。まさに、刈り取ったばかりの兵糧にのしをつけて魏に進呈したようなものだ。
 昔、劉璋が3万の劉備軍に対して援助を行ったが、その時の兵糧が20万斛である。3万の兵に対する援助ですら20万斛だというのに、40万斛というのは圧倒的に少なすぎる。長期戦に弱いのは攻めている魏軍だけではなかったのである。
 ここで40万斛はあくまで「備蓄」であり、秋になれば兵糧が入るので安心と考えることもできるので、次に蜀全体の生産力について考えたい。

4.2.2 蜀の生産力(上の@・Aを参考)

 涼・雍地区の生産力が1.7斛とあるが、この地区の主力は米ではなく麦である。 一方、蜀は米も取れて肥沃な土地と諸葛亮が言っているので蜀の生産力はこれよりは多いはず。日本人同様、蜀人もお米族なのである。ただ、魏の良質の屯田で5斛だが蜀は盆地で日照時間が少ないから生産性が落ちるので、約3斛と考えてみる(※補注5)
 次に、『漢書』地理志にある平帝元始2年の国勢調査によると、一戸平均の耕作面積は約70〜80畝となっている。後漢になってもほぼ横ばいの数字であるので、蜀にも適用してみる。
 ここで、「蜀の戸数は28万戸」「一戸平均70畝」「1畝あたり3斛」のデータから算出すると、蜀全体の年間生産量は約5900万斛となる。ただし、これは全ての家が田を持っており、耕作地を100%耕作し、国が税として100%徴収(鬼だ・・)を行った場合の数値である。
 補正として、田の保有率・耕作割合を8掛けにして、税率10%(後漢の税率。蜀は後漢の制度を継承しているはず)
(※補注6)と仮定すると、蜀が徴収できる兵糧は約380万斛となる。適当にやった計算の割には蜀のヤバさがよくわかる数字になったものである。評価を低く見積もりすぎ!と思われる方もいるかもしれないが、諸葛亮の北伐で1年以上食糧が続いた試しが無いことからもこの程度であろうと思われる。ついでに、四川盆地にある成都近辺ならともかく、軍屯を行ったとされる漢中は標高500mの山地であり、平地並に作物が育ったとは考えにくい(特に水田は無理だろう)(※補注7)

5. 総括

 小難しい話ばかりしてきたので、最後くらいは簡単にしましょう(口調も変わる)。要するに蜀の状況は・・

@数はいても、兵士・民衆に士気が無い  → 戦えない
A現時点で手元の軍糧がほとんどない   → 守れない
B生産力がない                 → やっぱり守れない
C南蛮も呉も信用できない           → 逃げられない

戦えない、守れない、逃げられない。あとは降伏するか死ぬしかなかったのです。

貴方は御旗のもとに死ねますか?

  ・・・「国に殉じる」と口で言うのは簡単です

周は腐れ儒者ですか?

  ・・・口先三寸ではなく、状況を的確に判断している正論です

成都は燃えているか?

否、帝都の平和は周が守ったのです

・・のはずが、おバカな軍人姜維が奇策を思いつき、失敗したため成都に内乱が発生し、成都は蹂躙されてしまいましたとさ。

あははーっ・・


参考文献

@ちくま学芸文庫 陳寿『正史 三国志4』(裴松之注,今鷹真・小南一郎訳,筑摩書房)
Aちくま学芸文庫 陳寿『正史 三国志5』(裴松之注,井波律子訳,筑摩書房)
Bちくま学芸文庫 陳寿『正史 三国志8』(裴松之注,小南一郎訳,筑摩書房)
C歴史群像シリーズ『三国志 上巻・下巻』(学研)
D米田賢次郎『中国古代農業技術史研究』(同朋舎)
E総務省統計局統計センターのHPより『国勢調査結果の時系列データ』
※太平洋戦争終戦時の兵力を547万(陸軍発表)とした資料の名前を忘れてしまいました。ごめんなさい。

※補注1

 「斛(コク)」は体積の単位。日本でいうところの「石(こく)」に相当する。ただし、当時の中国で「石」と書けば重さの単位(この場合、セキと読む)なので混同しやすい。おそらく昔の日本人が斛と石を混同し、「石」を「こく」と読むようになったのではないか。ちくま学芸文庫の正史三国志では「コク」を「斛」ではなく「石」と表記(例:兵糧40万石)しているが、本来は「斛」が正しい。ちなみに日本でいう「石(こく)」は体積をあらわすらしい。

1石 = 10斗 = 100升 = 1000合 ( ≒ 150 kg ) [戦国時代の日本の場合]

 「合」はご飯を炊くときによく出てくる単位である。そういえば、「5合」って「ごごう」ではなく、「ごんごう」って発音しません?うちだけかな?

※補注2

 米田賢次郎氏の著書「中国古代農業技術史研究」の中で引用している西嶋定生氏の論文「魏の屯田制〜特にその廃止問題をめぐって〜」(『中国経済史研究』所収)によると、『晋書』食貨志から屯田兵1人あたり50畝の耕地が割り当てられたと計算できる。屯田兵4万が各自50畝づつ耕作し、年間500万斛の徴収が得られるので、1畝あたりの徴収量は2.5斛になる。魏の屯田兵の徴収率が50%(つまり5公5民)なので、逆算して生産量は1畝あたり5斛となる。

※補注3

 水田の3分の1とは少なすぎる気もするが、『漢書』食貨志によると、「春秋戦国時代の魏の生産力は1畝あたり1.5斛」とある。魏は黄河流域の国であり、当時の中でも生産力は高かったに違いない。漢代になって農耕技術が発達し、(画期的な改革「代田法」で30〜60%増)生産量が飛躍したとは言え、涼・雍地区は米より生産性の劣る麦を植えていたことを考えれば、1.7は決して少ない数値ではないと思う。

※補注4

 『蜀書』魏延伝によると、魏延は長安急襲作戦を立案するとき、その期間を10日と予測し、5千の兵と5千斛の兵糧を要求している。これから計算すると1万の兵を1年維持するのに36万斛必要となる。もっとも、魏延は急襲するつもりなので兵糧を多くは持てず、長安陥落後に貯蔵庫から兵糧を得ようと当て込んでいたことから、この36万斛は最低ラインということだろう。ケ艾の言う「60万斛」は決して大きい数字ではない。

※補注5

 『蜀書』諸葛亮伝で諸葛亮は「15頃(けい)のやせ田がある」と言っている。15頃は1500畝にあたる。一方、諸葛亮は丞相の位にあり、後漢の制度を継承していれば、月当りの俸禄は350斛だった。諸葛亮はつましく、田が全て俸禄によるものであると考えれば、年間4200斛を1500畝で生産したことになる。これより1畝あたり2.8斛となり、蜀の田畑の生産力を3と仮定するのはそれなりに妥当であろう(ちょっと多目かもしれない)。

※補注6

 学研の「歴史群像 三国志上・下巻」によると魏の屯田では税率が50%だった。高利に見えるが、当時の地主が小作民から徴収する割合と同程度だった。屯田からの莫大な収入のおかげで、一般民衆の税率はわずか1%だった(!)。・・なので、魏・蜀両国全体の生産量を同じ計算法を用いて計算し、比較するのは厳密に言えば間違っている(汗)。まあ、概算ということで勘弁して下さい。

※補注7

 学研の「歴史群像 三国志下巻」に詳しい話が掲載されている。一読の価値があろう。

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