荊州四君主の妥当性

[荊州四君主とは・・このレジュメの目的]

コーエー(ゲーム会社。元の光栄)の三国志のゲームをやったことがある人にはすぐお分かりだと思いますが、ここでいう荊州四君主とは、零陵の劉度、桂陽の趙範、武陵の金旋、長沙の韓玄の四人のことです。彼らは劉備が新野を所有しているシナリオで荊州南部を支配しており、ゲーム開始後に速攻で劉備に滅ぼされ、劉備躍進のダシにされてしまうというパターンがお約束になっています(ただし、三国志Yは除く)。

今回のレジュメでは、演義では各郡の太守としてあたかも独立勢力のように描かれている(もっとも、完全に君主扱いなのはゲームだけですが)彼らが、実際はどうであったのかを考察することを目的とします。

[仮定]

このレジュメにおいて、「演義では」と言っていない限り、正史の記事となります。また、三国志演義からの記事に関して、横山光輝しか読んだことないという人でも、三国志演義=横山光輝の漫画として構いません。ただし、以下の点については正史と三国志演義と横山光輝で相違が大きいので表記を統一させていただきます。

  三国志演義 横山光輝 正史(当レジュメでの表記)
劉度の読み方 りゅうど りゅうど りゅうたく
劉度の息子の名前 劉賢 劉延 劉賢

[演義における四君主とその配下]

まず、今回の主役となる彼らの紹介から始めましょう。斜字は演義にのみ登場する架空の人物です。カッコ内の武将は戦いに参加した武将です。

@零陵(劉備・諸葛亮・張飛・趙雲)

劉度……零陵の太守。劉賢の父親。劉備軍に負けて降伏。
劉賢……劉度の息子。偽の降伏をするが、張飛に生け捕られて降伏。
荊道栄…零陵の大将。偽の降伏をするが、趙雲に殺される。

A桂陽(趙雲)

趙範…桂陽の太守。趙雲に降伏した際、兄嫁をすすめて断られる話は有名?
陳応…桂陽の管軍校尉。趙雲に偽の降伏をするが、見破られて斬首。
鮑隆…地位も行動も陳応と同じ。「鮑(あわび)」の意味をもつ名字って・・

B武陵(張飛)

金旋…武陵の太守。鞏志の諌めを無視して張飛と戦い敗北。鞏志に射殺される。
鞏志…金旋の従事。諌めを無視して敗北した金旋を射殺し開城し、後任の太守になる。

C長沙(関羽・周倉)

韓玄…長沙の太守。短気で人望が無く、黄忠を殺そうとして逆に魏延に斬り殺される。
楊齢…長沙の管軍校尉。関羽に一騎打ちをしかけ、あっけなく切られるただの前座。
黄忠…関羽との一騎打ちを韓玄に疑われて斬首されかかるが、魏延に救われる。
魏延…劉備の追っかけ(?)。韓玄を斬って黄忠を助け、開城する。

これらから気づくことは何でしょう。そう、各州の太守と、黄忠・魏延以外は全員フィクションなのです。

[正史に見る荊州四君主]

正史によると、荊州四君主の名前は先主伝(劉備の伝)の中の、赤壁直前から、劉備が荊州を制圧するまでの記述にしか出てこないのです(一部は別伝等にも登場するが)。つまり、劉賢や鞏志などの人物は言うまでもなく、関羽と黄忠の一騎討ち・魏延の謀反などのエピソードも全て三国志演義の創作ということなのです。

一応趙雲の伝中に引かれている『趙雲別伝』には、趙雲が趙範の兄嫁をめとるようにすすめられる話が載っているものの、趙雲が桂陽を攻め取ったとはどこにも書いていないので、桂陽攻略戦直後の話ではなく、はるか後の話とも考えられます。

すなわち、正史に見られる南荊州侵攻は2行で終わるのです。ちなみに、正史には長沙太守の韓玄と、魏の韓浩が兄弟と言う話は載っていません。おそらくこれも演義による脚色でしょう。

[韓玄の実像]

四君主のうち、劉度と趙範の記述は先主伝・趙雲伝以外にはまったく見えないのでこれ以上の追跡は無理ですが、金旋と韓玄にはもう少し細かい記述があるので、韓玄の方から見ていきたいと思います。黄忠伝には以下のような記述があります。

荊州の牧劉表は黄忠を中郎将に任じ、劉表の従子の劉磐とともに長沙のユウ県を守らせた。曹操は荊州を打ち破ると、仮に裨将軍の官につけ、そのまま元の任務をとりおこなわせ、長沙太守韓玄の統制下においた。

このことから以下のことがわかります。もともと長沙は劉表の領地であり、後に曹操が荊州を制圧します。この時に下級役人はそのまま人事異動をせずに据え置かれ、太守のみ漢朝から派遣された官吏にする方法をとりました。その官吏が韓玄でした。このトップの首だけ変えるという方法は、支配者が新しく獲得した土地に対してよくおこなったことなので、突然名前が出てきた韓玄が、曹操の荊州支配のための派遣組である可能性は高いと思われます。

[金旋の実像]

韓玄の場合と似たようなことが金旋にも見て取れます。以下に『三輔決録注』の記述を要約したものを掲載します。

金旋は京兆(長安一帯)の人である。代々漢臣の家柄で、祖先の金日テイ以来、忠節は顕著で累代に渡り名誉節義を守っていた。黄門郎、漢陽太守を歴任し、中央に召されて議郎に任命され、中郎将に昇進して武陵太守を兼ねた。

これを見る限り、金旋も韓玄と同様、曹操の派遣組であることが推察できます。というか、金旋が漢中興の名臣と呼ばれたあの金日テイの子孫とは驚きです。金旋を記述している「三輔決録」は長安近辺の優秀な人材を評価している本であり、金旋は実はかなり有能な政治家であった可能性もあります。

また、金旋の息子の金イは漢室をないがしろにする曹操に腹を立て、謀反を企てるものの失敗した人物です。演義でも漢の忠臣として書かれていますが、金旋の息子とは書かれていません。

同様にして、劉度や趙範も派遣組であったということでしょう。(もし彼らが元劉表配下か荊州の独立勢力だったならば、劉表伝に載ってしかるべきである)だとすれば、趙範が逃げたというのも、曹操のもとに帰ったのだろうと自然に考えられるのです。

[南荊州侵攻の正体]

赤壁の前後の経緯を総合すると、曹操は荊州を制圧した後、劉備を圧迫したため、劉備は孫権と同盟を結びました。しかし劉備は呉を完全には信用していなかったので、曹操との戦いには参加せず傍観を決め込みました。曹操が敗北したことにより呉から土地を借り受けたものの、投降者が多かったためにさらに呉から土地を借り受けました。

さらに劉備は曹操の撤退で統制を失った南荊州を制圧すると、もとの本拠地公安(南郡)をそのまま州都として荊州の牧(刺史ともいう。長官のこと)になりました。普通ならば、南郡は呉からの借用地なので、南荊州を取った時点で本拠をそちらに移し、南郡は呉に返却するのが常識なのです。この一連の行動が、関羽の死まで(劉備の死までか?)続く蜀と呉の確執の始まりとなるのです。

[まとめ]

実際は曹操から派遣された官吏にすぎなかった劉度・趙範・金旋・韓玄の四人衆。演義では劉備軍団の活躍を強調するために架空の部下は作られ、諸葛亮の作戦には引っかかりまくり、結局降伏する羽目になってしまうのです。ゲームにおいてはさらに君主にまでまつりあげられてまで劉備軍団の餌になりはてるのです。正史重視の三国志Yでは確か、ちゃんと曹操配下になっていたような気もしますが。

そんな彼らが演義やゲームによって必要以上に大きく扱われることは、虚像を作り上げる現在のマスメディアとも結びついており、興味深く思われるのではないでしょうか。

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