演義編 関興 カンコウ

関羽の次男。

魏軍を破った関羽に、功労者を昇官させるよう劉備に伝える使者として登場する。

関羽が呉に処刑され、号泣しながら劉備の前に出たところ、劉備は昏倒してしまった。呉への報復戦では張飛の息子張苞と先鋒を争って勝負するが、劉備の命令で義兄弟となる。1歳年上の張苞が兄、関興が弟となったが、これは父親の逆であり、作者がわざと狙ったものと思われる。
 打って出た張苞が呉将譚雄に馬を射られて落馬し、李異が斧でとどめをさす寸前、関興は薙刀で李異の首を落とした。
やはり技名は「鬼髯斬」であろうか。
 翌日、関興は譚雄を生け捕りにし、張苞に「昨日の仇を生け捕った」と笑う。これでは兄の張苞の面子は丸つぶれであろう。せめてこっちくらい残してやれば良いものを。また、朱然軍攻撃の為に張苞と山に潜んで崔禹を破り、生け捕りにする。しかし劉備が「2人がいれば老臣が役に立たなくても・・」と言ってしまったために黄忠が奮起して出撃し、その加勢に向かうこととなる。つくづく劉備は一言多い男である。

手柄を立てた黄忠に「御手柄を立てたうえは御帰陣を」と言うが黄忠は無視して翌日も出馬し、矢を肩に受ける。関興は黄忠を助けて引き上げたが、黄忠は死去する。
 さらに蜀は進撃し、関興は迎撃した周平を薙刀で殺す。さらに父の仇潘璋に出会って追撃するが道に迷う。山荘に宿を求めると、なんと関羽の絵が祀ってある。そこに潘璋も宿を求めに来るが、関興を見て逃げ出す。門まで逃げた潘璋だが関羽の亡霊が現れ、驚いたところを関興に切り殺される。青竜刀を奪い返した関興は潘璋の首を持って帰陣するが、またも父の仇馬忠に出会う。しかし多勢に無勢の為、ここは退却することとなった。
 翌日、呉に投降していた糜芳・傅士仁が馬忠の首を持って投降するが、許されず処刑され、関羽の仇討ちは終了する。
 張飛の仇も討った劉備だが呉への進軍はやめず、逆に陸遜に撃破される。関興は劉備に白帝城に逃げるよう勧め、趙雲の救援で九死に一生を得た。

諸葛亮の北伐に従い、趙雲に加勢して董禧を斬り、夏侯楙を南安城まで追撃する。諸葛亮の計略に従い、偽投降した楊陵を斬る。

関興は馬岱を道案内として魏の副都督郭淮に加勢した西羌の迎撃に向かうが、鉄車兵に敗れて谷に転落する。しかし関羽の霊が羌兵を蹴散らして道を示した為に助かり、同じく関羽の霊に導かれた張芳に出会って帰還した。関羽はいつ成仏するのだろう。未練たらたらであるとしかいいようが無い。
 諸葛亮の作戦で羌兵は敗れ、関興は大将越吉元帥を斬る。しかし直後に街亭が魏の手に落ち、関興と張苞は偽兵で司馬懿を防ぐ。
 次の北伐では関興は張苞とともに、郭淮・孫礼を伏兵で破り、昭が重病と聞いた諸葛亮の作戦で陳倉城を取る。また、司馬懿の作戦を看破した諸葛亮の指示で郭淮・孫礼を囲んで破る。廖化とともに秦良を破って曹真の本陣になだれこんで大勝するが、曹真には逃げられる。この時期の郭淮・孫礼は完全にやられ役の雑魚である。本当は名将なのに。

司馬懿の挑戦で陣比べをした諸葛亮の指示で関興は司馬懿の背後を突き、大勝する。
 隴上の麦を刈る際には天の神に扮して魏軍を驚かせ、その間に麦を刈り取ることに成功する。しかし李厳の失態で蜀軍は全軍撤退し、関興は魏延とともに、追撃してきた張を木門道で射殺した。

6度目の北伐には病気で参加できず、そのまま死去した。漢中で知らせを聞いた諸葛亮はその場に昏倒した。

・・が、思うに、関羽の亡霊が助けなければ、もっと早くに死んでいた可能性は高かったと思われる。

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