私評 簡雍 カンヨウ

演義の簡雍を見る限り、彼はあまり活躍していない。孫乾とともに地味な存在に成り下がっている。・・が、正史の簡雍を見よ!何て人間臭さ大爆発な男であろうか。

簡雍は劉備と同じ県の出身であることから、彼は劉備の友人であったことがわかる。張飛らが親分・子分の関係であることから、簡雍の立場はおそらくこれよりは上だったのだろう。劉備の配下というよりは、仲間・朋友といった気分に近かったのではなかろうか。強いて言えば孫策と周瑜の関係に近かったかもしれない。その分劉備からの信頼も厚く、重要な使者や相談相手になっている。死亡の時期が書いていないが、劉備の呉征討の時にはいなかったものと思われる。彼が生きていたら、絶対に劉備を諌めていただろうから。

諸葛亮相手でも傲慢に振舞ったことが特にポイントが高い。これは簡雍が劉備の友人だからできたことで、そこらのザコ武将が諸葛亮相手に傲慢に振舞ったら、帰り道に暗殺されていただろう。

また、正史簡雍伝には面白い記述がある。

当時旱魃で酒が禁止され、醸造したものは刑罰に処せられたことがあった。役人がある家を捜索して醸造用の道具を没収し、裁判官は酒を作った者と同罪にしようとした。簡雍は劉備と散策に出た折に一組の男女が道を行くのを見て、「あの者達は淫らな行為をするつもりです。どうして捕縛なさらないのですか」と言った。劉備が「どうしてわかるのかね」と聞くと、簡雍は「彼らは淫行の道具をもっています。醸造するつもりの者と同じです」と答えた。劉備は大笑いして醸造しようとした者を許した。

ここからわかることは、「淫らな行為は捕縛対象になる」ということである。現代日本に置いても、公衆の面前で行為に及べば逮捕されるが、おそらく簡雍のニュアンスは「この2人は大衆の面前で淫らな行為を・・」とは違うであろう。ここでいくつかのパターンを考えた。

A.男女が夫婦の場合
この場合は捕縛される理由がわからない。よって、男女は夫婦ではないと思われる。

B.男女が若者の場合
可能性としてはこちらが高い。とりわけ、捕縛対象になるのはそこが風俗街の場合である。つまり、何故か(笑)劉備と簡雍は風俗街をふらついていて、そこで見かけた男女を性行為と結びつけたのである。風俗街を並んで歩く男女なら、そう言う連想もありだろう。さらに、売春が捕縛対象なのは現代日本でも変わらない。

と、ここまでは現代の感覚で考察してみたが、民俗学的に考えると別の切り口も浮かんでくる。中国や日本をはじめとする農耕地帯では天父地母聖婚観念というものがある。つまり雨を精液になぞらえ、雨が大地にしみこみ、作物が育つことを妊娠・出産になぞらえているのである。そのため稲刈りの季節には、大地の出産祝いと、来年の豊穣を祈願する祭りが行われる。東南アジアのある部族の儀式には、豊作祈願で大地に向けて射精するという、聖婚観念そのまんまなものもあるという。東京板橋に伝わる「田遊び」という伝統儀式にもこの聖婚観念が残っているという。

・・で、この豊作を祝う祭りは、そのまま人間にも当てはまるのである。弥生時代以降の日本の風習として「性行為は特別な日にのみ行う」というものがある。先ほどの聖婚概念と重ねて、収穫祭の日にのみ人間が交わるのを許すのである。若者であれば、祭のときに相手を見つけて結婚するといった具合である。日頃は性のタブーが多い代わりに、祭りの日だけは開放されるのである(乱交状態に近くなる場合もあるとか)。日本でも郡上八幡(郡上踊りのとき)にはこの風習が近代まで残っていたようである。さすがに今は無いと思う。

話を三国志に戻すが、日本で弥生時代から見られたこの風習、当然同時代の中国にあったと考えても不思議ではない。つまり、収穫の季節以外の性行為はご法度という考え方である。これなら道行く男女が「淫行の可能性がある」として捕縛される理由になる。ただし董卓とかの行動を見る限り、本当にそんな習慣があったのかと勘ぐりたくなるなるが、田舎の農民の間に広がっている風習と理解すれば、まだ納得できるのではなかろうか。今の日本でも、田舎に行けば古い風習が守られているところもあるのである。

ただし、「性行為を祭のとき以外にしたら切腹よ〜(核爆)」は習慣であり、法律ではないので文献から証明するのは不可能であろう。漢代の文化を記した書物でも発見されないだろうか・・多分無理だろうが。

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