演義編 簡雍 カンヨウ

字は憲和。

県出身。劉備と同郷だということがわかる。

曹操と劉備が共謀して呂布を討伐しようとしているのが呂布にバレたとき、そのことを曹操に知らせた。劉備が呂布と戦ったときには劉備の命令で糜竺とともに徐州に残る。このときから、僕は幼心(中学生だけど)に簡雍って何の役に立っているの?と疑問であった。

劉備が曹操と雌雄を決すると徐州の守備を続けるが敗戦。徐州は曹操の手に落ち、簡雍は袁紹のもとに落ち延びるが、後に劉備と共に袁紹のもとから離れる。

汝南に落ち着いた劉備は曹操が留守にしている許都を襲撃しようとするが失敗。城の守備をしていた簡雍は城を捨てて荊州に逃げる。

夏侯惇が攻めてきたときには諸葛亮とともに祝宴の用意をする。常識で考えて、勝ったかどうかもわからない戦争の祝宴の用意をする心境が理解できない。もし、諸葛亮が「私の作戦なんだから、勝ってますよ」とか言った場合、僕なら「はぁ?」とか聞き返しているであろう。

曹操の脅威が迫ると劉備は新野を脱出したが、簡雍は諸葛亮の命で孫乾とともに「希望するものは一緒に来い」と民衆に呼びかけた。新野の民衆が大量虐殺される原因の一つがここにもあったりした。簡雍・孫乾が無理強いしなければ民衆は死なずに済んだかもしれないのである。

民衆を連れてノロノロと行進していると一陣の風が土煙をあげて日光を遮った。占いができる簡雍はこれを大凶と占うが、その夜曹操軍の攻撃を受けて劉備軍は壊滅。槍傷を負った簡雍は劉備の妻子を探していた趙雲に助けられ、事なきを得る。だが、残念なことに簡雍の占いはこれっきりおしまいである。この占いの力をもう少し発揮してくれれば、劉備軍ももう少しは活躍できたかもしれない。

呉と同盟を結びに行く劉備に鄂県の守りを固めるよう命令され、後に孫乾とともに夏口城を守備する。

劉備が蜀攻略に出たときには、諸葛亮と共に救援に向かい、張飛のあとから城に到着した。

劉璋に降伏を勧める使者となって入場するが、わざと傲慢な態度をとったところ秦に「無礼であろう」と罵られる。簡雍は笑って無礼を詫びると、秦と一緒に劉璋に面会し、降伏を勧めた。かくして劉璋は降伏し、簡雍の車に同乗して城を出た。

劉備が益州牧になると、簡雍は恩賞と更なる官位を授けられた。

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