正史編  コウエン

『続漢書』・『英雄記』によると、後漢の豫州牧から太尉になった。

劉璋の祖母の甥にあたる。

妻の弟は、蜀の光禄大夫になった来敏である。

『続漢書』によると、司徒楊彪・司空荀爽らと董卓を訪問したさい、董卓は「昔、高祖は関中に都をおかれ、後漢が中興されると都を洛陽に改められた。『石苞室讖(神秘的予言書)』を調べると、再び長安に都を戻すのが適当だ」と言った。楊彪が諌めると董卓は激怒し、役人たちは蒼白になった。黄が「これは重大事であります。楊公の言葉を重ねてお考え下さい」と言うと董卓は退席したが、その日のうちに楊彪・黄の2人を上奏して免官した。

『魏書』によると、曹操が反董卓の義兵をおこすと、豫州刺史の黄は曹操を殺害しようとしたが、曹邵(曹真の父)が曹操の身代わりになって殺された。

華佗を自分の幕府に招こうとしたが断られた。

士壱を厚遇したため、士壱もまた黄のためによく働いた。

演義 私評 戻る