演義編 趙雲 チョウウン

字は子竜。

常山の真定出身。

身長8尺、眉は濃く目は大きく、広い顔に肉づき豊か。堂々とした威風を持つ槍の名手である。このへんは横光三国志のイラストが結構あっていると思われる。

袁紹の配下だったが、袁紹には忠君救民の志がないので見限って北平太守公孫のもとに身を寄せた。袁紹配下の文醜に殺される寸前の公孫を救うが、趙雲を袁紹の密偵と疑った公孫は趙雲を後詰にした。公孫は袁紹に敗北するが、趙雲は再び公孫を救うと袁紹配下の義を撃破し、単騎で袁紹軍に斬り込んで縦横無尽に駆け回る。しかし体勢を立て直した袁紹の大軍にはかなわず、公孫を守って逃走した。そこに劉備三兄弟が援軍に駆けつけ、趙雲と劉備は運命の出会いを果たす(オイオイ)。

後に董卓が和解勧告を行ったため袁紹と公孫は兵を退いたが、別れ際に趙雲は劉備に「公孫を英雄と思ったのは誤認(確かに)でした。彼は袁紹程度(ここも認識が間違っている)です」と言い、劉備も「今は身を屈して仕えなさい。いずれまた会いましょう」と涙で見送った。思うに、趙雲は惚れっぽい性格のようである。劉備に惚れたのも袁紹<公孫<劉備の図式が趙雲の頭にあったからではないか。趙雲が曹操と出会わなかったのは蜀には幸運だったといえよう。

曹操の徐州攻撃から陶謙を守るため、趙雲は劉備に従い2000の兵で救援に向かうが、呂布が曹操の本拠地を襲ったために曹操は撤退する。

公孫滅亡後、流浪人生を送っていた趙雲は黄巾賊の残党と戦い、裴元紹を一突きで殺し、周倉に手傷を負わせる。慌てて逃げた周倉が連れてきた相手は何と劉備だった。再開に感激する劉備。趙雲も終生の忠義を誓うのだった。めでたしめでたし。・・って、裴元紹の立場はどうなるのだろう。殺され損か!?

劉備は、曹操が袁紹と戦っている間隙を縫って許都襲撃をもくろんだが曹操が引き返し戦いが始まる。趙雲は許と死闘を演じ、初戦を勝利で飾る。しかし夏侯惇に汝南を攻められ劉備軍は敗退。趙雲は血路をひらいて関羽らと合流し、荊州に逃亡した。

劉表の元にいた劉備は江夏で張武・陳孫が略奪していると聞き、討伐に向かう。趙雲は張武を討ち取り、張武の馬を劉備に献上したが、これは凶馬的盧であった。趙雲も劉備配下だけあってツキは最低ランクである。

劉表配下の蔡瑁は劉備への警戒心を強め、暗殺を図って宴席を催す。趙雲が劉備の警護についたため蔡瑁は隙をうかがえず、部下の文聘に命じ、趙雲を別の席に移動させようとする。趙雲は断ったが劉備の命令で会場を出る。案の定劉備は窮地に立たされる(危機管理能力ゼロ)が、伊籍の力で会場から脱出し、逃亡する。これに気付いた趙雲も事を荒立てずに新野に戻る。新野に戻った趙雲は再び劉備捜索に出かけ、無事、水鏡先生の山荘で劉備を発見、帰還した。

力をつけた劉備を警戒した曹操は曹仁を派遣するが、劉備軍は軍師徐庶の作戦に従って勝利する。趙雲も呂曠を討ち取った。曹仁は続けて李典を出すが、趙雲は軽くあしらう。曹仁が八門金鎖の陣をしくと、徐庶の指示で趙雲は東南から入って西に切り抜け陣をかき乱す。さらに夜襲により曹仁軍は壊滅。趙雲は奪取した樊城を1000の兵で守った。

徐庶が去り、諸葛亮が軍師となると趙雲は樊城から呼び出され、曹操軍に負けて誘い出すよう指示される。諸葛亮の必殺技「偽敗走+伏兵」作戦の記念すべき第一号である。趙雲は夏侯惇を火攻めで撃破して新野に引き上げた。

曹操が大軍で新野に押し寄せると、諸葛亮の指示で趙雲は城に火薬を仕掛けて新野城を焼いた。東門以外を塞いだことで逃げる曹操軍は東門に殺到、趙雲はそれを撃破した。

民衆を連れて逃げる劉備は曹操に追いつかれる。趙雲は劉備の家族を警護していたが乱戦で見失い、戦場を駆け巡る。途中簡雍・糜竺と出会い、発見した甘夫人を糜竺に送らせると、続けて糜夫人・劉禅救出に向かう。

遭遇した夏侯恩を殺して青スの剣を手に入れた趙雲はついに2人を発見する。が、糜夫人は劉禅を託すと自ら井戸に身を投げた。趙雲は敵兵から糜夫人の遺骸を守るため井戸を壊すと、劉禅を胸に抱き曹操軍に突撃する。

晏明を殺した趙雲だが、張に追われて穴に落ちてしまう。しか不思議な赤い光とともに飛び出し、そのまま囲みを斬り抜けた。この都合の良い「赤い光」は何だ?。対戦格闘ゲームによくある、コンボ発動時の閃光か?ああ、三国志だから無双乱舞でしょうな。

獅子奮迅の趙雲を見た曹操は趙雲が欲しくなり、生け捕りを命じる。このため趙雲は助かったのだが、どうやら曹操の気まぐれが起きたのも「劉禅の福徳の賜物」らしい。さすが劉禅。でも後を考えると、ここで全ての福徳を使い切ったというのは想像に難くない。

曹操軍の名のある将50人を討ち取った趙雲の前に夏侯惇配下の鍾縉・鍾紳が現れる。「天地を喰らう」で出てくる筋肉男である。趙雲は鍾縉を槍で突き落とし、鍾紳を青スの剣で兜割りにする。さすがに疲労した(でも化け物だ)趙雲だが張飛を見つけてバトンタッチしてもらう。こうして趙雲の勇姿は曹操軍の目に焼き付けられたのだった。

劉備と出会った趙雲は糜夫人の最期を伝え、警護失敗を泣いて詫びる。しかし劉備は劉禅を投げ捨て「お前のせいで大将を1人失うところであった」と言い、感激した趙雲は生涯の忠誠を再認識した。いや、だからここで落とされた劉禅が頭に受けたダメージが後々・・(しつこい)

呉と同盟した劉備だが、周瑜は諸葛亮を付けねらう。諸葛亮は天に祈祷して冬には吹かない巽風を吹かせると、そこに指示した通り趙雲が迎えに来る。呉将徐盛が追撃するが、趙雲が矢を放つと徐盛の船の帆綱にあたり、陸路で追撃した丁奉も「諸葛亮の才智・趙雲の豪傑ぶれにはかなわない」と引き上げた。あらかじめ迎えに来る時間を指定する諸葛亮も無茶ですが、本当に時間通りに来る趙雲もすごいです。

帰陣した趙雲は諸葛亮に「今夜2時に曹操が逃げてくるから烏林に伏兵せよ」と指示され、実行する。本当に曹操が現われ、趙雲は曹操を蹴散らした。

諸葛亮と周瑜が荊州南郡の奪い合いをした際には、諸葛亮の指示で、周瑜が曹仁と戦っている間に南郡城を横取りした。やはり趙雲は細かい芸が得意なようだ。

馬良の進言で劉備が南荊州攻略に向かうと、趙雲は桂陽攻めに名乗りを挙げ「3000の兵で充分」と誓紙を書くと、敵将陳応を生け捕りにし、太守趙範は降伏した。同姓なので義兄弟の契りを結び、4ヶ月生まれが早い趙雲が兄となった。

趙範は宴席で、兄嫁の樊氏(絶世の美女らしい)を呼んで趙雲に酌をさせ、趙雲と娶らせようとしたが怒った趙雲は席を立ってしまう。これに憤った陳応・鮑隆は趙雲を殺そうと謀るが見破られ、酔わされたところを縛られ、首を討たれる。趙雲にしてはダークな殺し方である。

話を聞いた劉備は仲人を申し出たが、趙雲は「天下に女は多いので、名を汚してまで結婚することはありません。妻子が無くとも問題ありません」と応じ、劉備は「男の中の男だ」と感心した。日本では古来から「世継ぎを生んでこそ」という風潮があり、独身男性は軽く見られる傾向がある(現在でも完全には消えていない)が、中国は果たしてどうなのだろうか。いずれ調べてみたいテーマである。

孫権は周瑜の策で妹を劉備に娶らせ、劉備の身柄を拘束して荊州を返還させようともくろむ。趙雲は諸葛亮の命で劉備の警護を担当し、秘計3条を入れた錦の袋を3つ受けとる。

呉に着いた趙雲は錦の袋を開け、指示に従い、孫権の義父喬国老・叔母呉国太に話を通じ、婚礼を本当に実現させてしまう。特に呉国太が劉備の人柄・趙雲の武者ぶりを気に入ったのが大きかった。将を射るにはまず馬からといったところである。

貧乏暮らしが長かった劉備は呉の贅沢な暮らしに骨抜きにされ、帰国を忘れてしまう。趙雲は第2の袋に従い曹操襲撃の偽情報で帰国を促した。脱出した劉備を呉将が追うが、第3の袋に従って劉備が夫人に「結婚は呉の謀略」と告げると、怒った夫人は追撃した呉将をどなりつけて追い返し、時間を稼いだ。そこに諸葛亮が迎えに来て一同は帰国を果たす。

呉の「道を借りて草を枯らす作戦」も趙雲が南郡を堅守した為に失敗。周瑜は血を吐いて死亡した。きゃあ周瑜さまぁ!(違う)・っていうか、こんなノリの女性は現代日本にまだいるのか? いるんでしょうけどね・・

曹操への使者である蜀の張松が落胆して帰国すると、途中で趙雲が出迎え、劉備と対面させる。張松の勧めもあって劉備は蜀に向かい、趙雲は守将として江陵に駐屯し、公安を固めた。

そんなさなか、呉から「呉国太が重病」と偽情報を受けた孫夫人は劉禅を連れて呉に帰国しようとした。すぐさま察知した趙雲は船に飛び乗って劉禅だけでも取り返し、劉禅を人質にとる呉の計略を阻止した。が、偽情報を信じた孫夫人はそのまま呉に帰国した。趙雲はまたも劉禅を助けたのである。

蜀進攻中の劉備は統が戦死したため諸葛亮を呼び寄せる。趙雲も軍を率い、城で合流することになった。城に着くと諸葛亮の作戦に従って金雁橋の北岸に伏兵し、蜀将卓膺を降伏させ、蜀将張任撃破にも手を貸した。

城が落ちると、諸葛亮の指示で張翼・呉懿と江陽・為方面の慰撫に回った。

馬超が来襲すると、趙雲は巡回中で参戦できなかったが、趙雲に降っていた李恢が諸葛亮の元に向かい、馬超説得に成功する。馬超は綿竹城に入城したが、そこに趙雲が蜀将劉ラ・馬漢を瞬殺して帰還したため、馬超は趙雲のすごさに驚いた。が、読者としては、長阪の戦いを見た後ではどうしても色あせて見えてしまう。

劉備が益州牧になると趙雲は鎮遠将軍となった。

劉備が成都の財産を諸将に分け与える案を出すと、趙雲は猛反対し、劉備もこれに従う。

魏の張を防ぐべく葭萌関に黄忠・厳顔が向かおうとすると、趙雲「子供の遊びではないのです。老人には無理です」劉備を諌める。老人(黄・厳)に対して「子供の遊び」とはこれいかに?・・が、これは諸葛亮の作戦どおり、油断した魏軍は大敗した。

諸葛亮は法正の進言で張飛・趙雲を先鋒として漢中に侵攻した。定軍山の魏将夏侯淵を討ちに行こうと血気にはやる黄忠に対し、諸葛亮は趙雲に黄忠の補佐を命じた。夏侯淵は黄忠に討ち取られ、張も趙雲に撃破された。

趙雲は黄忠と組むと、クジ引きで先鋒を黄忠と決めた。刻限に帰らない黄忠を心配して趙雲が出向くと、黄忠は張・徐晃に囲まれていた。趙雲は魏将慕容烈・焦炳を討ち取ると黄忠を救い、魏の陣を駆け回った。見ていた曹操は「長坂の英雄は健在だったか」と感心するが、趙雲が張著も容易に救出すると、自軍のふがいなさに怒り、趙雲を追った。

趙雲は陣に帰ると門を開いて一騎で門前に立つ。曹操は突撃を命じるが、魏軍は顔色を変えない趙雲にビビり、退却したところを伏兵に襲われて大敗する。劉備は「趙雲は満身これ胆である」と喜び、虎威将軍と呼んだ。嘘のような話だが、正史にも乗っている話である。まあ、正史だから真実だとは限らないが。

曹操は徐晃・王平に攻撃を命じるが、2人は意見が合わず、王平は趙雲に投降する。曹操自らが登場するが、諸葛亮の背水の陣に敗れ、趙雲らに蹴散らされる。

建安24(219)年7月、劉備が漢中王となると趙雲は五虎大将の1人に数えられた。

皇帝になった劉備が関羽の仇討ちの為、呉討伐を言い出すと、趙雲は「真の国賊は曹操、そして今の曹丕であり、孫権ではありません。公事を私事で廃してはなりません」と諌めたが劉備は聞かなった。こうしてみると、趙雲は安定・正論を好む保守派である。

劉備が出陣すると趙雲は後詰と糧秣の監督となった。劉備は陸遜に敗れるが、趙雲が救援に駆けつけ、趙雲の名を聞いた陸遜は魏の動向も懸念して退却した。

劉備は病の床で遺言し、趙雲に「今まで艱難を共にしてきたが、別れの時が来た。子供たちを頼む」と言い、趙雲も「臣は犬馬の労もいといません」と泣いた。

劉備の死に乗じて魏が5方面から攻めて来たが、諸葛亮はすでに態勢を整えており、趙雲も陽平関を守った。曹丕は呉に侵攻するが、趙雲が陽平関から進攻したと聞くと驚いて引き上げた。陽平関を出た趙雲だが、諸葛亮の南征のため帰還した。あくまでもフィクションだが、ここで趙雲が深く攻めていたら長安も落ちたかもと、帰還を勿体無く思う蜀ファンは多いはず。そういう人反三国志を読もう(笑)。

建興3(225)年、諸葛亮は南征を開始したが、趙雲と魏延は作戦から外されてしまう。不満の2人は抜け駆けし、捕らえた蛮兵から地理を聞き出すと裏道を通り、趙雲は金環三結元帥を討ち取る。董荼那・阿会喃は逃亡するが、趙雲らの行動を予見していた諸葛亮に捕らえられ、趙雲らは度肝を抜かれる。趙雲をしても諸葛亮の手のひらで躍る孫悟空になってしまうのである。

趙雲は5000の兵で伏兵し、南蛮王孟獲を撃破、多数を捕虜とした。また諸葛亮の指示で偽降伏した孟優を捕らえる。釈放された孟獲より先に孟獲の陣を奪い、「恩を忘れるな」と警告した。「命だけは助けた」意味だろうが、陣を奪っておいて言うセリフではない。

諸葛亮得意の偽敗走の策に従い、趙雲は孟獲を誘うとその隙に陣を奪い、蜀軍に負けて帰陣した孟獲軍にさらに追い討ちをかけ、孟獲は落とし穴に落ちて囚われた。

三江城を攻撃したときには毒矢に苦戦したが、土嚢を城壁まで積み上げで撃破した。しかし、現実的に考えればいくら蜀兵の数が多くても、そこまで土嚢を積み上げられるものだろうか。本当に出来ていたら、全ての戦いで応用できそうなものである。

孟獲の妻祝融を捕まえるため趙雲・魏延は偽敗走で祝融を誘引し、捕獲に成功する。

白い象に乗った木鹿大王の姿を見た趙雲は魏延に「長らく戦場を歩いたが、こういう奴は初めてだ」ともらす。確かにその通り。ただし、コーエーの三国志VIIでは、10万の象部隊を拝むことも出来る。

刀や弓矢を通さない藤甲を着込んだ兀突骨軍を撃破するため、諸葛亮の指示で趙雲は盤蛇谷で火計の用意をし、魏延が兀突骨を谷に誘引したところで火計を発動。兀突骨軍を全滅させた。

諸葛亮が北伐を開始すると、趙雲は高齢を口実にメンバーから外される。不満をもらす趙雲に対し、諸葛亮は中護軍芝をつけることで参加を許可した。

魏は夏侯楙を総大将にし、まず韓徳が瑛・瑶・瓊・hの4人の息子を連れて出陣する。趙雲は韓瑛を槍で突き落とすと、残りの3人と同時に戦う。趙雲の力に韓兄弟は勝てず、h・瓊は討ち取られ、瑶は生け捕りにされる。芝は「70にもなって、腕は昔のまま」と賞賛する。ただ、芝の言葉を信じれば趙雲は159年以前の生まれとなり、劉備より年上になる。ここは60歳の間違いであると指摘する人もいる。

続けて息子を討ち取られた韓徳が復讐心に燃えて趙雲に立ち向かうが、たちまち討ち取られ、夏侯楙は追い詰められる。

勢いに乗る趙雲であるが、程の子程武の策で魏軍に囲まれ、「いよいよ私も死ぬのか」と嘆息するが、そこに諸葛亮の指示で関興・張苞が駆けつけたため助かる。「甥とも言うべき彼らに負けずに、私も戦おう」と態勢を建て直したため夏侯楙は大敗して南安城に逃げ込んだ。趙雲らの世代から、息子の世代へのバトンタッチの象徴とも言えるシーンで、この後、趙雲以前の黄忠のようなキャラクターとなってしまう。趙雲は本場中国では「老将」のイメージが強いらしい。しかし、光○の影響か、中国の最近のゲームでは趙雲を美形の若武者にしているものも多いようだ。

快進撃を続ける諸葛亮だったが、魏の姜維は諸葛亮の作戦を見破り、さらに趙雲とも一騎打ちで引き分ける。趙雲は「これほどの使い手がいたとは」と驚いた。後に姜維は蜀に投降し、夏侯楙は異民族のもとに逃亡した。魏の名門が蛮族のところに逃げるのであるから、演義中でも魏にとっては最大級の屈辱である。

続けて魏は曹真を総大将とするが、趙雲は諸葛亮の作戦に従って兵を伏せ、魏軍の夜襲を撃破した。

魏に味方した西羌を破った諸葛亮が陣を引き上げると、郭淮は「蜀は西羌軍に対応するため引き上げた」と考えたがこれは諸葛亮の作戦で、伏兵していた趙雲と魏延は魏軍に大勝し、趙雲は魏の副先鋒朱を討ち取った。

街亭で馬謖が撃破されると、箕谷にいた趙雲も撤退するが、趙雲は芝に自分の旗を持たせ、自分は後詰めになった。

趙雲は、芝を趙雲と誤認し退却した郭淮軍の先鋒蘇を討ち取り、郭淮軍の万政も同様にして落馬させた。万政には槍を突きつけて脅しただけで命は見逃してやり、一兵たりとも失わずに漢中に帰還した。

趙雲が帰還しないのを心配した諸葛亮に出迎えられた趙雲は「敗軍の将に、もったいなき幸せ」と言った。撤退の見事さを聞いた諸葛亮は「真の将軍とは君のことだ」と黄金50斤を趙雲に、絹1万匹を兵士に与えようとしたが、趙雲は「敗軍に恩賞が下されては、賞罰の道が乱れます。国庫に収め、冬になったら兵士に賜りますよう」と優等生な返事。読者を感動させてくれるが、これを聞いた部下の兵士の一部は間違いなく「ふざけるな」と思ったに違いない

趙雲の態度に諸葛亮は「先帝がつねづね趙雲の徳をたたえていらしたが、今、それがよく理解できた」と感嘆した。が、ちょっと待て。諸葛亮はあれだけ趙雲に頼り、こき使っておいて、今になるまで趙雲のすごさに気がつかなかったというのか!?そりゃあ、他の武将が小粒に見えるわけである。

建興6年9月、漢中で諸葛亮が北伐の為の軍議を開いているとき、東北からの風が庭の松の枝を折った。諸葛亮の占いでは「大将を失う兆」と出る。果たして、趙雲の息子たちが到着し、「父は昨夜午前零時、病気で亡くなりました」と伝えた。

諸葛亮は「趙雲の死は国家にとって棟木が一本落ちたようなもの。私にとって腕を一本もがれたようなものだ」と足を踏み鳴らして泣いた。

劉禅も「朕は幼い頃趙雲に救われていなければ死んでいたところであった」と泣き、ただちに大将軍・順平侯の爵位を追贈し、成都の錦屏山の東に葬らせ、廟を建てて四時の祀りが行われることになった。

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