正史編 趙雲 チョウウン

字は子龍。

常山郡真定県の出身。

長男に趙統、次男に趙広がいる。

もともと公孫の配下だったが、公孫が田楷を救援する為劉備を派遣して袁紹を防がせたとき、劉備の主騎として随行した@

@『趙雲別伝』によると、趙雲は身長8尺。姿・顔立ちが極めて立派だった。郷里の郡で推挙され、義勇兵を率いて公孫のもとに参じた。当時袁紹は冀州牧を称し、公孫は州の住民が袁紹につくのを深く憂えていたが、趙雲が味方についたので喜び、からかって「聞けば貴方の州の住民は皆袁氏につくことを願っているそうだが、君はどうして思い直し、迷いから覚めて正道に戻れたのかね」と言うと、趙雲は「天下は勝手なことをいっておりますが、未だ誰が正しいかわからないままに人民は逆さ吊りのような憂き目にあっています。我が州は仁政を行う方に従うわけで、袁氏を軽視して殿をひいきしているのではありません」と答えた。こうして公孫とともに征伐を行った。
  その頃劉備も公孫に身を寄せていたが、常に趙雲を評価してつきあったので趙雲は自分から深く結びつくことができた。趙雲は兄の喪のために公孫のもとを辞して故郷に帰ることになった。劉備は趙雲が戻らないことを悟り、手を握って別れ、趙雲は「絶対に御徳を裏切りません」と別れの言葉を述べた。
  劉備が袁紹に身を寄せると趙雲はで目通りした。劉備は趙雲と同じ床で眠り、彼を派遣して募兵し、数百人を獲得した。兵は劉左将軍の部下と称したが、袁紹は知りもしなかった。こうして劉備に従って荊州に赴いた。

劉備が曹操に当陽県の長阪まで追撃されたとき、劉備は妻子を棄てて南方に逃走したが、趙雲は劉禅を胸に抱き、甘夫人を保護し、おかげで母子は危難を免れた。牙門将軍に昇進した。

劉備が蜀に入国すると趙雲は荊州に留まったA

A『趙雲別伝』によると、劉備が敗北したとき趙雲が北方に去ったという者がいたが、劉備はその者を手戟で打ち、「子龍はわしを見捨てて逃げたりしない」と言った。ほどなく趙雲が到着した。
  江南平定に従い偏将軍に任ぜられ、桂陽太守を兼務し趙範と交替した。趙範の兄嫁は樊氏といい未亡人だったが、趙範は彼女を趙雲に娶らせようとした。趙雲は辞退して「同姓のゆえ、貴方の兄は私の兄と同じです」と承知しなかった。周囲は娶ることを勧めたが、趙雲は「趙範は切羽詰って降伏したので、心底は測りかねる。天下に女は大勢いるのだから」といい、結局娶らなかった。趙範はやはり逃亡したが、趙雲は何の未練も持たなかった。
  その以前、夏侯惇と博望で交戦し、夏侯蘭を生け捕りにした。夏侯蘭は趙雲と同郷で幼なじみだったため、趙雲は劉備に頼んで夏侯蘭の命を救い、法律に詳しい者だと推薦して軍正にした。以後趙雲は自分から夏侯蘭に接近しなくなった。趙雲の慎重な配慮はこれほどである。劉備が益州に入るとき、趙雲は留営司馬の役を兼務した。
  当時劉備の孫夫人は孫権の妹なのを鼻にかけ驕慢に振舞い、呉の官兵を率いてしたい放題をやり法律を守らなかった。劉備は趙雲が厳格な為、引き締められると判断し、特に任命して奥向きのことを取り仕切らせた。孫権は劉備が征西したと聞くと妹を迎える為に多数の船を派遣してきた。孫夫人は内心、劉禅を連れて呉に帰りたいと願っていたが、趙雲が張飛とともに長江を遮ったため、劉禅を取り戻すことができた。

劉備は葭萌から引き返して劉璋を攻撃し、諸葛亮を召喚した。諸葛亮は趙雲・張飛を率いて長江をさかのぼって進攻し、郡県を平定した。江州に到着すると趙雲に別の川を通って江陽に上り、諸葛亮と成都で合流することを命じ、成都が落ちると翊軍将軍に任じられたB

B『趙雲別伝』にいう。益州が平定されると、成都の建物や城外の桑田を諸将に分配しようという案が出されたが、趙雲は反対して「前漢の霍去病は匈奴が滅亡していないと言う理由で屋敷を作りませんでした。現在、国賊は匈奴の比ではなく、平安を求めるべきではありません。天下の平定を待って郷里に帰り、故郷で農業をするのが適切であります。益州の民衆は戦禍にあったばかりですから田畑・住宅は返還すべきです。住民に落ち着いて仕事に復帰させ、徴税を行えば彼らの歓心が得られましょう」と述べ、劉備は従った。
  夏侯淵が敗北したとき曹操は漢中の領有を争って、北山のふもとに数千万袋の米を輸送した。黄忠は奪い取ろうと思い、趙雲の兵士を連れて略奪に向かった。黄忠が約束の時間に帰らないので趙雲が様子を見に数十騎を率いて軽装で出陣すると、曹操が大軍で来るのに出会った。趙雲は曹操の先鋒隊に攻撃され、さらに曹操の大軍が到着して押しまくられたので、陣に突撃をかけて戦いつつ退いた。曹操軍は敗北したが、すぐに勢いを盛り返した為、趙雲は自陣に向かった。将軍の張著が負傷したため再び敵陣に舞い戻り、張著を迎え入れた。曹操軍が陣営まで追撃すると、陣にいた陽の長張翼は門を閉ざして防ごうとしたが、趙雲は門を開けて旗を伏せ、太鼓をやめさせた。曹操は趙雲に伏兵があると疑い退却したが、とたんに太鼓が鳴り弩が発射されたので曹操軍は仰天し互いに踏みにじりあって漢水に落ち、多数が死亡した。翌朝劉備は自ら趙雲の陣に向かい、昨日の戦場を視察すると「子龍の身体はすべて肝っ玉だ」と述べ、日暮れまで音楽を演奏し宴会を催してねぎらった。軍中では趙雲を虎威将軍と呼んだ。
  孫権が荊州を襲撃したので劉備は激怒して孫権を討とうとしたが、趙雲は諌めて「国賊は曹操であって孫権ではありません。魏を滅ぼせば呉はおのずと屈服します。曹操は死んでも子の曹丕が簒奪をはたらいております。民衆の心にそって関中を手に入れ、黄河・渭水の上流を根拠として逆賊を討伐すべきです。関東の正義の士は必ずや食料を持ち、馬に鞭打って歓迎するでしょう。先に呉と戦ってはなりません。ひとたび戦闘を交えれば、すぐに解くことは出来ないのです」と言った。劉備は聞き入れなかったが、趙雲を留めて江州を取り締まらせた。劉備が帰で敗北すると趙雲は永安まで兵を進めたが、呉はすでに引き上げていた。

建興元(223)年、中護軍・征南将軍になり、永昌亭侯に封じられ、後に昇進して鎮東将軍になった。

建興5(227)年、諸葛亮に従って漢中に駐留した。

建興6(228)年、諸葛亮は出兵して斜谷街道を通ると宣伝したため曹真は大軍で蜀軍にあたらせた。諸葛亮は趙雲と芝に曹真の相手をさせ、自身は山を攻撃した。魏の大軍に対して趙雲の軍は弱小だったので箕谷で敗北したが、敗兵をまとめ守備を固めたので大敗にはいたらなかった。軍が撤退すると鎮東将軍に降格されたC

C『趙雲別伝』にいう。諸葛亮が「街亭の軍が撤退するとき将兵の統率が失われなかったのはどうしてか」と訊ねると、芝は「趙雲自ら後詰めになりましたので、軍需品を捨てずにすみ、将兵の統率がとれました」と答えた。趙雲が軍需品の絹を残していたので、諸葛亮が彼の将兵に分け与えようとすると、趙雲は「負け戦なのにどうして下賜があるのですか。これは全て赤岸の蔵に収め、10月を待って冬の仕度品として下賜されますよう」と答え、諸葛亮は大いに嘉した。

建興7(229)年死去し、順平侯の諡号を追贈された。

子の趙統があとを継いだ。

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