沈思黙考

過去の目録 2002年 2月 1月
過去の目録 2001年 12月 11月 10月 9月 8月 7月 6月 5月 4月 3月 2月 1月
過去の目録 2000年 12月 11月 10月 9月 8月 7月 6月 5月 4月  目次に戻る

3月31日(日)

この前亡くなった師匠も、3年前に亡くなった小学校の担任もガンだった。
うちの父親は会社員だが、会社から人間ドックやガン検診の書類が届き、年に1,2度は病院に行っている(公休扱いになっているのだろうか?)。だが、僕の記憶では学校の先生が検診を理由に休んだ話を聞いたことがない。一応夏休みや冬休み等に検診の義務があるのだろうか。もし無いとすれば問題だと思うのだが・・


3月30日(土)

今日は開幕戦の日である。井川と上原の投げあいはなかなか良かった。が、一番良かったのは9回の裏の攻防戦である。無死一塁から清原の当たりを横っ飛びで止め、二塁にトスした片岡。阿部の打球をジャンプでグラブに当てた遊撃手(名前忘れた)のプレイ。見ていて惚れ惚れするプレイである。もし阿部の打球がショートを普通に越えていたら試合はわからなかった。
そして何より、井川の投球。要所を押さえており、清原に一発を浴びたものの、9回までコントロールにさほどの乱れも無かった。敵ながら、阪神の良いところが目に残った試合であった。巨人の左打者はカーブに弱いのが、相変わらずの難点だなぁ・・


3月29日(金)

昨日は塾から帰ってきたのが23時過ぎ。メールを見たりして寝る。
・・で起きて時計を見たら5時。疲れていた割には早く目が覚めたなぁと思っていたら、夕方の5時だった。今日は学校やバイトが休みの日でよかった。もしあったらとんでもないことになっていた・・(汗)


3月28日(木)

告別式の帰りに、新勧活動にいそしむサークルの部室を冷やかしに行く(非常識な・・)。そうしたら何と、4月になっていないのに、新入生が説明を聞きに来たではないですか。早く来た人が入部する確率が高いというわけではないですが、3月のうちから来てくれたのは始めてかも。今年はたくさん新入生が来てくれるのだろうか・・?


3月27日(水)

一晩寝たら、甘えが吹っ飛びました。クイズ作成も即日再開します。
師匠は僕にとって永遠の敵であり、壁だったわけですが、死んでしまったものは仕方ありません。現状認識を優先させ、復帰することが一番でした。掲示板につまらん泣き言を書いてしまってすみませんでした。がんも様、レスありがとうございます。

ちなみに、僕が命名した「闇の教育学」とは、人の負の心です。小・中学校のいじめ・不登校・学級崩壊等は全て「自己防衛本能」によるものと僕は考えています。つまり、「自分を常にプラスに持っていこうとする」性質です。「優しさ・思いやり」を持つことと、「憎しみ・ねたみ」を持つことはどちらが簡単でしょうか。明らかに後者です。ということは、本質的に人間は負の心を持ちやすいということになります。つまり、負の心こそ本能に近いのではないかと。
よって、「学校問題の解決」は「本能を理性で抑制する方法」を研究することで、少しは解決に近づけるのではないかと思うのです。文章がまとまらないので、いずれまとめ書きしたいと思っています(卒論の時期までくらいに)。


3月26日(火)

中学2年のとき、その先生は来た。一学期の中間テストがおわり、返却するときに彼は言った。「○中の伊比君はできる生徒と聞いていたんだが、この程度か」
はあ?いきなりそんなこと言いますか普通!?(まあ77点じゃバカにされても文句は言えないが)
それ以来、僕の中ではその先生を打倒する(=テストで満点を取るor議論を吹っかけて論破する)が目標となった。

結局100点は1回も取れなかった(最高92点)。議論もことごとく敗れた。主なものを挙げると、
「校則を厳しくするべきか、緩和するべきか(僕は厳しくする派)」
「職員室は禁煙であるべきではないか(僕は禁煙派)」
「いじめ問題等、心の問題をどのように扱うべきか(フリートーク)」
当たり前だが、中学生ごときが、経験豊富でかつ老獪なベテラン国語教師を論破できるはずも無かった。僕は高校生や大学生になってからも度々先生のもとを訪れ、「理想の教育像とは何か」「日教組の問題点は何か」について議論を交わした。

一昨年、教育学部に編入することを報告しに行ったときも教育問題について語り合った。先生、いや、師匠は「理想もいいが、現実を見て判断しなきゃな」が口癖で、結局僕は負けた。別れ際に僕は「2,3年後になりますが、次に来るときには僕が勝ちます」と宣言した。教育学部で勉強し、自分なりの教育哲学をまとめたら再び戦いに行こうと思っていたのである。
教育学部に来て僕の考えも変わった。やはり師匠の言うとおり、現実が優先である。講師を続けながら自分なりの認識をかためつつ、僕のテーマ「闇の教育学(自称)」を研究し、師匠にぶつけてみよう。別に勝つとか負けるとかは二の次で、意見を聞いてみようと。

・・なのに師匠はガンで亡くなってしまいました。まだ50代なのに。まだ僕は勝っていないのに。教員にすらなっていないのに。

僕が教員を目指すキッカケをくれた3人のうち2人が亡くなってしまった。どちらも有能な人で、50代だった。何で良い人が早く死ぬのだろう。


3月25日(月)

どうも巨人の投手陣の中継ぎ崩壊は直っていないのかもしれない。ただ、これに関しては投手の自信や思い込みもあると思うので、時間をかけてでもゆっくりと直してもらいたいものだ。
もし打たれたとしても続投させ1人でも討ち取ってから交代させれば自信の回復につながる。マスコミも「投壊投壊」と叩かなければ徐々に中継ぎ陣も安定してくるであろう。ストッパー河原については未知数なので何ともいえないが。


3月24日(日)

田舎(酒屋を経営)で改築工事をするため、店の模様替えを手伝いに行った。
が、予想通り、久しぶりの力仕事で腕に炎症が発生。家に帰ってきてからも激痛が止まりませんでした。水道の蛇口をひねるだけで、筋肉がつったときと同等の激痛が・・


3月23日(土)

昔読んだことがある話なのですが(普通の本か、図鑑か、論文なのかは忘れました)、ハトの習性についての話です。

ハトの集団の中で、影響力のある一匹が、突然群れの中の一匹を攻撃する(理由は不明)。すると、他のハトたちも最初の一匹に従って、相手が死んでも攻撃し続ける。

こんな話が頭の片隅にあるのです。ハトだけじゃなく、他の動物にも見られるのかも知りません。僕の勘違いか記憶違いの可能性もあります。が、もしこのような話を聞いたことがある人がいたら御一報ください。ついでに出典がわかれば万々歳です。


3月22日(金)

大学3年生から編入した僕の必要単位は、2年間で取れる上限単位ギリギリである。つまり、入学したとたん、背水の陣をひいている状態なのである。そんな中、出席もとらない上、つまらない大教室でやる授業があったので5月半ばくらいから行くのをやめていた。
・・と思ったら6月から毎回出席を取り出していた!?何てこったい。一個でも落としたら留年だというのに・・
そこでテストでリカバリー決定。他の科目に手を抜いても、この科目だけは勉強して自己採点でおそらく90点は確実な答案を提出したのである。

・・が、やっぱり出席重視だったらしく、単位を落としました。単位を落としたのは学生生活6年目にして初めてだ(しかも留年決定のオマケ付き)。

仲間の中には単位の問題で「入学した瞬間留年決定」という人もいるが、さすがにナメていた選択授業を落としたのは自分の責任である。まあ余分にもらった1年間で資格をとって非常勤講師にでもなろうかな。理科の教員免許は手に入れたし。


3月21日(木)

学校において、教師の力は授業だけに限らないものである。とりわけ必要とされるのは統率力や実行力(まあ、熱意に比例している要素なのかもしれないが)。僕の出身の中学でも、卒業後に音楽の先生が代わると音楽祭のパワーが少し落ちた。で、その次に来た若い教師が無能のため、音楽祭はカスになってしまった。10年前は、うちの中学の音楽祭は体育館が満席で立ち見が出るほどだったのに、今のレベルじゃあ無理である。
学校行事にしても、学年主任が代わっただけで、一気にトーンダウンしたようである。つまらなくなったなぁ・・


3月20日(水)

僕の基本スタンスで、全ての物事を両面から考えるというものがある。すなわち、長所は短所に通じ、短所は長所に通じるというものである。例えば、「こまやかな気配り」は「神経質」と紙一重であり、「明朗活発」は「うるさいバカ」と紙一重である。
そこで僕が何かをシミュレートするとき(とりわけ議論系)には、両方の立場にたってみるのである。自分が賛成派のときは、自分で賛成文章を書いたあとで、反対派になった気分で自分の文章にケチをつける。で、再び賛成派になった気分で、そのケチへの反論を仮定する・・etc。
たまに他人から企画案を提出される(口頭含む)ことがあるのだが、メリットしか書いていないものが多い。メリットしかない企画などありえないのに。そのデメリットをきちんと予測し、その対処法を添えた上で報告する意見こそ、考察する価値があるものである。自己批判は大事な要素だなぁと思う。そこで、暇があったら「秘蜀分析」で昔自分が書いたレジュメに自分でケチをつけてみようかな。


3月19日(火)

クイズを作るときに、一番悩むのは選択肢を作ることである。例えば、「劉備の字は?」という問題を作るとき、

ア: 九郎 イ: 劉ちゃん ウ: 玄徳 エ: フランソワ

とやってしまうと、知らない人手も余裕で解けてしまい、クイズとしては面白くない。が、逆に、

ア: 厳徳 イ: 弦徳 ウ: 玄徳 エ: 玄得

とやっても、ある意味面白くない(ただ、作成の苦労という点では後者の方が簡単)。クイズとして面白く、また、ついニヤリとしてしまうようなひねりの利いた誤答を作るのは本当に難しい。これはクイズに限らず、試験問題を作成するときにも言えることではあるが・・


3月18日(月)

うちにDCポップンミュージックと専用コントローラーがきた。いらないという友人から、妹が破格の値段で買ったらしい。・・なんかオモチャみたいなコントローラーだなぁ、と思いつつ、後ろで見ていた。
で、僕も初プレイ(音ゲーをやるのは生まれてはじめてである)。
結構面白いかも・・いや、むしろ面白い。もともと中学校のとき僕は音楽の指揮やらミュージカルやらを経験しているので、リズム感は無くはない。ただ、頭でわかっていても、正しいボタンを押せないのである。これは何かの感覚に似ている。そう。習いたてのピアノと一緒である。自分がどこのボタンをどのタイミングで押せばよいのかわかっているのに、指が別のボタンを押しているのである。ただ、これは慣れなので練習するしかあるまい。はまりそうな予感。ただ、ボタンを押すたびにバコバコうるさいのが、まさにオモチャっぽい所以であるが・・


3月17日(日)

学力調査で、小学生の計算能力が10ポイント下がったとのこと。まあ言うまでも無い。やっと文部省も事態に気づき始めたかという観がある(遅すぎという意見もあるが、気づいただけ良しとしよう)。
僕は5年近く講師のバイトをしているので、小中学生の計算力の変化には気づいていた。もっとも、いつの時代でも勉強熱心な親や、勉強に一切関心を持たない子どもはいるので、上位と下位のレベルに変化はあまりないのだ(だから、底辺校は相変わらず底辺校だし、東大のレベルも10ポイントまでは下がっていない)。そう考えると、2つのパターンが考えられる。

@上位の子どもの数が減った
→不況で受験させる親の数が減っているから。何やかんや言っても、受験勉強を経験した子どもの頭の切れは良い。
A中間レベルの子どもが、下位レベルに移行している
→僕が懸念しているポイント。不況で未来の展望が暗いため、「今が良ければいい」という考えが小・中学生を支配している。当然、未来への投資である勉強をするわけがない。

@はともかくとして、Aは問題である。とりわけ中間レベルの子に多い思想である。成績が真ん中のため、それ以上の高望みをしなくなり、気づくと下位に落ち込んでいるというパターン。この手のタイプに「将来役立つから」という言葉は無意味である。彼らの考え方を変えていくにはどうしたらよいのだろうか。今のところ、解決できない悩みである。


3月16日(土)

そういえば、例の疑惑の議員が離党したそうで。組織から離れてしまえば、組織への損害が減らせるという考え方とも取れる。そうでなくとも、日本は組織が個人を切ることで、責任逃れをすることの多い国といえる。最近の記憶では、巨人の杉山が事件を起こしたとき、訴訟になったときには「元巨人軍」になっていた。
古くは、外国人登録令なんてのもある。昭和22年5月3日に日本国憲法が施行されることとなったわけだが、その前日に施行された令である。つまりは日本に連れてきた人々を外国人にしちゃえば、翌日から施行される日本国憲法を適用しなくてすむという、究極のシッポ切りである(前日というのが、いかにも駆け込みっぽい感じ・・)。

離党させずにそのまま辞職勧告でもすれば党のイメージも上がっただろうが、もしも離党させたことで知らん振りを決め込むとしたら、おそらくこの党は壊滅的打撃をこうむるに違いない。が、そんなに組織の体裁とは大事なものなのだろうか?張子の虎にしか思えないのだが・・


3月15日(金)

面白い人を発見。その発言や行動原理は研究対象としてなかなか興味深いものがあります。ひとえに、教育学が難しいといわれる原因の一つとしては「実験ができない」ことが挙げられます。薬の認可が難しいのと同様で、人間相手に人体実験を繰り返すわけには行きませんから(個人的には、やりたいところなんですが)。
しかし、ネット上なら話は別。ネット上では匿名性が強いため、その人の本性が出やすい(=理性よりも、本能に近い行動をとる)ので、その人の行動原理を観察するにはうってつけなのです。とりわけ、心に闇を抱えた人なんて、見ているだけでわくわくするくらいのサンプルと言えます。要するに、インプットに対して、オブジェクトがどのようなアウトプット傾向を示すかを分析することで、問題行動の対処法を調べる資料にできるわけです。
掲示板に書き込まれた数々の内容から、その人の特性を分析するのはなかなか面白いもの。さあ、実験実験♪(ちなみに僕の関係者ではありません。関係者は僕の主観が入るので、分析しづらい・・)


3月14日(木)

魏延の野望のクイズネタを考えるために、正史や演義を読み返すことになる。現在の構想では、「通常版」「追加版(クリアした人向け)」「アナザーストーリー(前作をクリアした人向け)」の3部構成になっている。現在、「通常版」の作成中なのだが、通常版だけでクイズが160問必要なのである。なかなかすぐに思いつけるものではない。そこでジャンル別にして、「孟獲配下」「演義エピソード」「ゲーム三国志」と項目を決め、ネタをひねっているのだが、魏や呉に関しては遥かに知識不足なのでクイズのネタが全く出てこないのである。
でも、正史や演義を読み直すと、新しい疑問点や事実の発見もあったりするので、なかなか楽しかったりもする。大変だけど。


3月13日(水)

自己紹介の形式を、「100の質問」形式にしてみました。ちなみに「鍵っ子に(以下略)」は実在し、試しに見てみたのですが、ネタがわからない質問が多かったのでパスしました。ほ、ほら、だから僕はそんなにコアじゃないということです(見苦しいなぁ・・)。
それにしても、自己紹介を自分で考えるたびに思います。「自己」紹介とは何であろうかと。自分は果たして自己を理解しているのだろうか?もしくは、自己を理解していたと仮定しても、対人関係のときに現れるのは自己ではない。自己しか出さない人間ばかりだと社会が成り立たないからである(まあ、地域紛争が絶えないのもこれのせいですが)。
ということは、「自己」を紹介しても、実際の交流場面では役に立たないことが多いのではないだろうかと思うのです。皆、社交という仮面をかぶって社会にいるわけですから。

そこで、僕が気に入っているのは「他己」紹介。要するに、他人に僕の紹介を書いてもらうのです。「他人」の視点で僕を見れば、それは「社会」が僕をどのように感じるかを知ることにもなるのです(もちろん、書き手は中立性の高い人が望ましい)。
そんなわけで、サークルの自己紹介号は毎回楽しみなのです(OBの紹介は前幹事長が書くので)。4月が今から楽しみです。


3月12日(火)

うう、恥ずかしい。
昨日はビール飲んで酔っ払いながら沈思黙考をしていたこともあり、フリーソフトのレビューなどという大それたことをしてしまった。そんなことを言える身分でも無いのに。・・しかも、レビューになってないし。
あと、僕は酔うと単語を切って喋る(書く)傾向があることが判明。とりあえず資料になるから、このまま残しておこう。


3月11日(月)

ふと思い立ったので、ゲームレビューでも。今回のタイトルは「ハーバーランドでつかまえて」

・・知らないですよね。フリーソフトですから。とは言え、あの「窓の社」にも登録されているくらいのソフトです。ジャンルはアドベンチャー。ギャルゲーではないですよ。多分。
絵もシンプル。ストーリーもシンプル。でも、味わいがあるのです。とりわけBGMがとても効果的に使われています。ほのぼの系というべきか。あと、関西弁に対して少し親近感が湧きました。「関西弁はヤクザの言葉」だと思っている(うちの親とか)関東人の人にもいいかも・・

あ、全然レビューになってない(汗)。


3月10日(日)

人の呼び方とは難しいものである。特に三国志の場合。だたいま魏延の野望のシナリオを考えているところなのだが、AがBを呼ぶときの呼称について、いつも考え込んでしまう。はて、この人はあの人を呼ぶとき、これでよいのだろうか?と。
皇帝なら陛下。張飛なら張将軍。が、地位がわかっていない無名武将を呼ぶときはどうしよう。字もわからない。
横山光輝さんとかも、このあたりには苦労したんだろうなぁ。仕方ないので、横光を参考に呼称を決定してみたが、目下が「劉備殿」って呼ぶのは本当はダメなんだけどな。


3月9日(土)

サークルの追い出しコンパがあった。その後で行われたカラオケで、モーターマンを気に入ってしまった。今度探しに行こう。
次は犬山〜


3月8日(金)

家に帰ってきて、出しっぱなしの洗濯物を取り込んで、疲れたので少し横になったらそのまま寝込んでしまった。気づいたら朝。

・・カーテンを開けっ放しで、電気をつけたまま寝てしまった〜!!

外から丸見えである。みったぐない。まあ、見られて困るようなものはないと思うのだが。


3月7日(木)

ネットを常時接続(1.5M)にしてから一ヶ月がたった。昼間からネットにつなげる環境というのは非常に危険である。学校があるときはともかく、今のように一日家にいるときなど、ヒマなときについネットにつないで、何時間も過ごしてしまう。誘惑に駆られて、他のことができない。ダメ人間への一歩を歩みだしているようで怖いなぁ・・


3月6日(水)

サンライズと聞いて思いつくもの。

@ゲーム・アニメ製作会社
AJR西日本で走っている夜行列車
B英語の教科書

このくらいでしょうか。ゼミの先輩がこの会社に就職することになったのですが、周りの人たちはこの会社名を聞いても全然わからなかったようなのです。僕は当然のように(?)一発で理解しましたが。考えてみれば、僕の周囲にはサンライズを知っている人たちばかりなので気にしたことが無かったのですが、ここは普通の人には認識されていないのでしょうか。
まあ、僕自身も2000年9月まではKeyなどというものには全然無関心でした(下は、初めて認識した日の日記)が、

22日のこと、大学のラウンジで1人茶を飲んでいると、友人C兄と1年生のM兄が別々に来た。C兄はしばしば僕に某ゲームを貸すからやれと言っており、僕はその度に「だから僕は○○ゲーはやらないといっているではないか」という会話がなされていた。そこで今回は先手を取り、「僕はだいたい、火の鳥のように未来永劫報われない話や、フランダースの犬みたいにバッドエンドな話は嫌いなのだ」と言った。以下は会話形式。
C兄「現実はそういう話ばかりだッ」
僕「だからこそ、わざわざ見たくないといっているのだ」
C兄「では、何故君は三国志が好きなのだッ?三国志は蜀が滅ぶ話だぞ」
僕「う・・・今回は君の意見の方が正しい。負けたよ」
というわけで自分から仕掛けた論戦で、あっけなく敗れるという前代未聞の大敗を喫してしまった。最近論戦をしていなかったので鈍ったのだろうか。後で考えれば、抽象的な意見が多すぎた。結局、僕はそのゲームを借りることになったが、家族に配慮して全年齢対象版の方を貸してくれるとか(ツッコミ禁止)。これを見ていたM兄は多分呆れてたんだろうなぁ。

以後、僕の中ではフランダースの犬よりもKanonの方が感動名作だとか、後輩に強引に貸し付けてクリア感想を強制訊問するとか、PCを持っている人間でKanonをしていない者は宝の持ち腐れであり、額縁を買って写真を入れないようなものだとか、少し認識が変わってしまったわけです。ともかく、自分の中の常識が世間では通じないと困った問題も起こるので、世間一般の認識をいかに把握するかということは重要なのですが、サンライズの知名度に関しては意外でした。もっと広く知られていると思っていたのに・・


3月5日(火)

場合によっては東京湾に沈められてもおかしくない、駅前路上君が代から一夜明け、スーパーに買い物に行きました。そこでかかっていた曲に僕はふと耳を止めました。「おさかな天国」です。
この曲の存在は知っていましたが、実際に聴いたのは初めてでした。

・・ここで考察。このスーパーは以前からこの曲を扱っていました。が、僕はこの曲を意識することがありませんでした。このことは人間にとって、「認識」ということがいかに重要であるかを示しています。僕はスーパーにたびたび行き、そこでこの曲は流れていました。でも僕は全く気づいていないのです。人間の鼓膜は振動を感知する器官なので、聞こえないということはありえないわけで、つまり僕は聞こえているが聴いていない状態だったといえます。
人間の感覚とは面白いもので、自分に必要なもの以外をシャットアウトする機能があります。例えば籠の中のハムスターを観るときは、目の前にある檻はぼやけて見えません。このとき、僕はハムスターを意識しているため、檻は認識から外れているので見えないのです。でも写真をとると、はっきりと檻が写っています。
自分の身の回りにある森羅万象に対し、いかに自分が通常意識を向けてないかということを認識した一日でした。


3月4日(月)

留学する知り合いのお別れコンパに参加。ノリノリになった皆さんは高田馬場のロータリーで円陣を組んで校歌を熱唱(夜の9時過ぎ)。肘兄やおれさま大兄と会った直後の話です。はい。
校歌をストリートで熱唱なんて初めてだったので、僕も大いに盛り上がりました。が、問題はその後。

「次は君が代を歌おーぜ」

生粋の右翼っ子の某が言い出しました。「ははは・・」と笑ってオチがつくはず。ところが、ノリノリな皆さんは歌い始めました。おーい、何そこ歌っているの、自称左翼の某よ?
僕も君が代は国家として認識・擁護しているので、嫌いな曲ではありません。が、場所が問題です。君が代は高田馬場のロータリーで円陣を組んで歌う曲ではありません。講堂とかで歌うものです。周囲の人たちが見ています。僕は歌わずに、変な人たちに囲まれないように見張り役をやるのが精一杯でしたとさ。やれやれ。


3月3日(日)

確定申告の紙を書いていると混乱してくる。もう何回目かなので、ある程度は慣れているのだが、こういう税金とか選挙とかのシステムは全然わからないのである。
そこで考えた。何故、公教育でこういうことを学ばないのだろう。確かに憲法や衆議院の人数も重要かもしれないが、税金のシステムとか、役所に行ったときの紙の書き方とか、そういうことを教えてくれたほうが役に立つような気がする。大人になってから国のシステムを学ぶ機会はそう多くはないのだから。


3月2日(土)

受験も終わったことだし、教育関係の考察を1つ。
学習指導要領の内容が減り、週休2日制が公立校で完全実施される。が、私立はほとんどのところが土曜日も授業を行うようである。すると、公立校は、勉強する日にちが減った上に内容も減ったわけで、私立に対抗することがますます不可能になる。親は子を私立に入れようと塾に通わせ、私立に行く子と公立の子の差はますます広がる。
・・が、それ以上の問題がある。ちょっと前までならそれでも塾に行かせることができたが、今は不景気のため、一般庶民では子どもを塾に通わせる資金を出せない家庭が増えている。すると、「私立=進学VS公立=普通」という構図が、実は「私立=金持ちVS公立=庶民」という構図ともリンクしてしまい、「私立・進学・金持ちVS公立・普通・庶民」という「エリートVS貧民」の二項対立になってしまっているのだ。
景気のいいときなら普通の子でも塾に行って俗に言うエリートコースを歩めたのだが、不景気の今となっては、塾に行かせる資金も難しい。結果的に、金持ちは勉強できるが貧乏人は勉強できないということになり、その家の経済力がそのまま人生に直結してしまうのである。
だからこそ、公立でも質の高い学問を見につけさせるべきであるのに、文科省はわかっていない。塾に行かなくても大学受験ができるような公立高校が全国にいくつあるだろうか。東京では日比谷などが方向転換で私立並の受験校目指して躍進中だが、こういう学校をいくつか設立しないと、一般庶民が教育に絶望しか感じなくなってしまう恐れがある。それでは明治初期の教育以下である。
立身出世のみがいいとは思わないが、学校で学んでプラスになる実感を与えるには、質の高いものが必要だと思うのだが・・


3月1日(金)

旅行中に思い出した話。中国では合肥のあたりで大人が子どもをしかるとき、「早く寝ないと張遼が来るぞ」みたいな感じで脅していたらしい。それほど呉の人間にとって張遼は脅威だったわけだ。・・で、能登での出来事。能登の海岸地帯では夕方以降に子ども達が遊びに行こうとすると、親に「こんな時間に海辺にいると船で連れて行かれますよ」と注意されるらしい(少なくとも、僕と会話した相手の地域では)。
確かに、僕も小さいときに直江津の親戚の家に遊びに行って、似たような話を聞いた覚えがある(そのときは麻袋に詰められると言われたような・・)。恐るべし北○鮮。それともロ○ア?

目次に戻る