沈思黙考

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1月29日(水)

ちょっと別の話。

高知県の山田高校で、女子の冬季制服にズボンを採用したとのこと。実に良い話である。ただ、世間には視点がズレてる人も多いようで、

「これは女性の社会進出によるスカート・ブルマ廃止論(フェミニストの運動と絡めて)だ」
「ときめきがなくなる…」(男子生徒の声:笑)」
「ズボンはかわいくない(ファッションを気にする女子高生)」

などという意見が存在する。・・何というか、バカですな。

ここで一番重要なのは、ときめくとか、フェミニズムとかそういう話ではなく、
「冬にスカートだと寒いから、ズボンがはきたい」
という健康管理上の問題で採用された制度のはず。男子だって、仮に冬に短パンで登校すれば、どれだけ素足をさらすスタイルが体に悪いか身にしみてわかるはず。別にズボン強制というわけでも無いし。
ちなみに、うちの妹が通う高校は何故かスカートがひざ上と校則で決まっているそうだ。最初聞いたときはひざ下と勘違いしていた(ミニ強制は教員の趣味か・・? とうがった見方もしたくなる)。冬にそんなミニを穿いたら寒くて仕方がないではないか。そのせいか、妹は冬にしょっちゅう風邪を引いて欠席している。学校は融通の効かないところだから、「風邪をひくから温かい格好で登校したい」という主張も通じにくい様子。山田高校の爪の垢でも煎じて飲んでもらいたい。

スカートとズボンの自由選択という形が山田高校以外にも広がることを期待したいものだ。


1月27日(月)

あるクラスでいじめが発生して、継続したとする。加害者と、被害者と、傍観者がいる。このとき1つのモデルとして、

加害者にとってみれば、いじめをすることで「他者の貶めによる自己の優位性の確認」で「快感+」の感情になっている。
被害者にとってすれば、反抗したが逆に余計ひどくなったので、「現状維持のほうがまだマシ」という「相対的+」を選択。
傍観者にとってすれば、「あいつがいじめられていれば、少なくとも自分はいじめられない」という「相対的+」を選択。
学校側にとってすれば、「下手に関わって大事にしたら、学校のイメージダウンだから無視」という「営利的+」を選択。

というものを考えてみる。だいたい長期化する場合はこのパターンが多いと思われる。
では、どうしたらこのいじめモデルを解決の方向に向かわせられるだろうか?

僕の考え=価値観をひっくり返す。

・・と言っても、価値観を変えるというのは非常に難しい。よくあるたとえ話で「泥棒の家に生まれ、『盗まれるほうが悪い。隙があったら盗め』と教育された子どもは「窃盗が正義である」と身につけてしまう」というものがある。生まれた頃からの洗脳とも言える。戦前なら「天皇万歳」がそうだし、現代なら「アメリカは正義」というふうに、国家的に洗脳教育を行っているところも多い。

いじめっ子の場合、「自分の優位性の確認」で非社会的価値観が身についている。人は誰しもプライドがある。通常は「自分を高め、能力をみがく」ことで満足する。練習して強いサーブが打てるようになったり、計算問題ができるようになったり・・と。
が、自分を高めるにはもうひとつの方法がある。「相手を貶める」ことで相対的に自分を優位に立たせる方法で、江戸時代に苦しい農民の不満をそらすため、えた・ひにんと呼ばれる集団を作り上げて相対的に優位に立たせた過去の実例もある。よく食べ物を残すときに戒めの言葉として使われる「世の中には飢えに苦しむ人が・・」というのも、「自分より下を見せることで、自分の上位を確認する」方法である(この場合は自己満足が目的ではないが)。
いじめっ子・犯罪者の中で「幸せな人を見るとむかつく」とか「あいつ、なまいき」とか言う人がこのタイプだろう。

どうすればこのタイプの人の価値観が変わるのか。残念ながら、尋常な方法では無理だと思う。革命的な価値観の変化を促すような強烈な体験をさせるか、その人がこれまで歩んできた人生と同じ時間をかけて矯正していくしかない(とはいえ、人為的に外からの力で価値観を変えるのは洗脳教育と表裏一体の諸刃の剣だと思うが)。価値観は、その人の人生の中で積み上げられてきたものだからである。なので、このタイプのいじめを、いじめっ子を指導することですぐに収めることは難しいだろう。この場合は、次善策として傍観者・被害者にアタックしたほうが良いと思われる。 長くなったので、次回に続く。


1月23日(木)

「明けましておめでとうございます」の短縮形「あけおめ」は前から知っていたが、「今年も宜しくお願いします」の短縮形「ことよろ」というのは最近まで知らなかった。ことよろという響きは、「ことえり」に似ているなぁ・・
ことえり=Microsoft IMEのMac版という認識で正しいのかな? メタ女の隠れヒロインという異説も正しいと思う(爆)。

−閑話休題−

一週間ぶりだが、人は何故価値観が違うのだろうかという話。僕はこの点については環境説を大いに支持したい。環境説については「俺がこうなったのも、全て社会(or学校or親)が悪いんだ!」という、三流ドラマで阿呆な人が使う言い訳として有名だが、それとは少し違う。
タイトルを忘れたが、中学生の頃に読んだ国語のテキストで、主人公がおつりを多くもらったことに気づき、それを返却したことを親に報告する場面があった。その時の親の返事は、「いいことをしたね」ではなく、「馬鹿だね。黙ってもらえばよかったのに」だった。

僕のいう環境説とは、つまりこのことである。幼少の頃より誰もが無数の選択をしてきている。右に行くか、左に行くか。もらうか、返すか。これらの選択の結果、うまくいった方の選択を「+」として記憶するのである。
しつけもこれと同じである。「良いこと」→「+」とは逆に、「悪いことをした」→「怒られる、ぶたれる」→「−」という価値観を子どもに与えることにより、対偶をとって「悪いことをしないこと」→「+」という価値観が子どもの中に植え付けられるのだろう(対偶という表現は違う気もするが・・)。

ということで、いじめを考えるキーワードとして、

「善人も、悪人も、人は全て打算で動く
「価値観は幼少の頃から積み重なってきた経験によって決まる」

の2つが出てきた。この2つをまとめると、どうなるのか・・?


1月17日〜1月22日

教育ボランティアという制度により、公立中学校に派遣されました(無償でやるTAみたいなものと考えると早い)。久しぶりに食べた学校給食。米はまずいが、おかずはバランスが取れていて良い。「まずいから食べたくない」なんて言っていると、そのうちもったいないオバケが・・(古いネタだ)
味はともかく、栄養の取れた食事を295円で食べられる幸せ。贅沢を言ってる子ども達も大学生になればわかるであろう。


1月16日(木)

続き。

いじめの話を進めたいので募金のたとえは今日でおしまいにするが、何度も言うように「ヒトは自分にプラスとなる」打算で動くわけである。
では、素直に募金する人は打算で動いているのだろうか? 人の優しさを打算と判断してよいのだろうか?
僕の考えでは、これも「相対的にプラスとなる選択」だと思う。

本当に優しい人は募金するとき、素直に相手の窮状に涙し、少しでも助けてあげられればと思い募金する。これは「助けてやったんだぞ」という自己満足によるプラスではない。しかし、別の要因による自己満足が存在すると僕は考える。
ここで「募金するプラス」という視点を逆転してみる。そういう人は果たして募金を無視できるだろうか(悲しい話を聞くと自分のことのように涙を流し、助けたいと心から願う人もいるのである)。その手の人は募金箱を前にして、見捨てることができないのである。つまり、「募金を無視することは自分の感情に対してマイナス」なのである。そう考えれば、善意で募金する人の心理プロセスも、「自分の悲しみを減らすための相対的プラス」を選択する行動と捉えられる。結局、「自分にとって嫌なことはしたくない」選択の結果としての募金と考えられるのだ。

「人は複数の選択肢があるとき、相対的にプラスになるような行動を選択する」だと少々わかりにくいので、簡単に言い換えて、
「善人も、悪人も、人は全て打算で動く
」。これをいじめ考察序論の1つ目のキーワードとしたい。次回は「相対的にプラス・マイナス」はどうして人によって違うのか? ということを考えてみる。


1月15日(水)

先日の続き。例えば、募金行為について考えてみたい。募金をする・しないの判断はどのように決まるだろうか?
別に、僕がどうとか、あなたがどうということではなく、世の中の全ての人を考えたときのことである。

例えば、募金に関する要因として、下のような価値観を持つ人がいると仮定する。
「社会的理由」…(1)募金をすることで褒められたいor(2)募金をしないことで周囲の評価が下がる
「道徳的理由」…(1)慈善行為をするのは当然or(2)慈善行為は偽善だ。だからしたくない

とりあえず上の2×2の要因を考えてみた。実際の「理由」は多岐にわたるが、面倒なので簡単なモデルにしてみた。最終的な決定は、その人がこれらの要因をどの順番で優先しているかによる。

「社会2」>「道徳2」→「募金をする」

という人は、「自分の本音としては、募金はしたくない。だが、募金しないと周囲からの評価が下がってしまい、そちらの方が嫌である」という理由で募金しないと考えられる。どちらもマイナス要因だが、どうせならマイナスの少ないほうを選択したわけだ(相対的にプラスだから)。

「道徳2」>「社会1」→「募金をしない」

という人も考えられよう。この場合は「募金をすることで褒められたいのだが、偽善は嫌だ。だから募金しない」と考えられる。

斜に構えていない素直な人の場合は「道徳+」>>>>>「社会」なのだろう。


1月14日(火)

友人に月姫というゲームをもらったが、大学のテストが間近にある。そこで覚悟を決めて、ディスクを机の奥に封印。テストが終わるまでは手を出さないことにする。大学2年のとき、テスト直前に将星録を手に入れてテストを棒に振った過去があるため、涙の決心である(意志が弱いだけという話も)。

さて、「人は複数の選択肢があるとき、相対的にプラスになるような行動を選択する」の話の説明をば(ちょっと抽象的だった・・)。

人は誰だって、自分が良い思いをしたい。2つの異なる選択肢があった場合、自分により良い方を選ぼうとするのはある意味当然のことだといえる。が、ここで問題なのは、「その人にとって、何か『より良い』かはその人によって異なる」ことと、「1つの行動を決める要因は複数存在する※」ということである。

※ある現象Pがあるとする。このときPを様々な変数で偏微分していけば、Pを各要因別に多角的に捉えることになる。逆に、要因関数f(x),f(y),…を重積分すればPを推定することも可能である。

言い換えれば、「ある行動の選択を考えるとき、人は多角的に考慮し、最終的に利益を生む方向で決定する」ということである。


1月13日(月)

さて、やっと疲れが取れてきたので、再び教育問題の話でも。数回に分けて「いじめ」について考察。まずは序論

僕は中学校の教員志望であるが、「みんな仲良く」とか「いじめをなくそう」という教育理念を学級会で掲げる教師にだけはなりたくない。もちろん、喧嘩するよりは仲良しの方が良いし、いじめは無いに越したことが無い。が、経験的にどちらも発生率をゼロにすることなどできないのである。スローガンとして「喧嘩をしないようにする」「いじめをしない」とするなら百歩譲って理解できる。

そこで僕は考えた。いじめを少なくする方法論を考えるとき、必然的にいじめの発生理由に行き当たる。では、発生理由とは何か?

いじめられている人間以外の全ての人間が相対的に幸せになれるからだと思う。

過激な意見で驚くかもしれないが、僕の考えはこれである。この結論は僕の持論である仮説から導かれた。その仮説とは

「人は複数の選択肢があるとき、相対的にプラスになるような行動を選択する」

というものである。これについてはまた次回。


1月12日(日)

本日はUG兄らと一緒にシベリア超特急3を見に映画館に行った。ちなみに僕が映画館に映画を見に行くのは中学校のときの卒業鑑賞会以来なので、実に10年ぶりである(10年ぶりの映画がシベ超・・)。

例によって結末は秘密にするよう水野晴郎に口止めされているので内容は言わないが、「どこかで見たような作品のオマージュ」「誰でもすぐわかる展開」「多分、言われなければ気づかない斬新な解釈」と、どこをとってもツッコミどころ満載の映画であった。1500円を払ったが、メンバー曰く「我々は金を払って馬鹿なことをしに行くのです。高いほうが、より馬鹿なことをした気になれる」との名言に納得。
そして、シベ超ラップ。水野晴郎がラップを歌って(?)いるのである。「超!超!超!シベ超!」というサイコなノリに魅せられて、ついCDを購入。2500円なり。セイレーンの歌に惑わされて海に引き寄せられ、溺死する旅人の気分を味わうという貴重な体験をした。帰宅してから自責の念にかられたことはいうまでもない。

とはいえ、映画館を出るときに、トークショウに参加するためやってきた水野晴郎本人(おそらく)を間近で見られたのが一番の収穫だったかも。


1月11日(土)

日々、面白いFlash作品を見るたびに、自分も作りたいなぁと思う。やはり技術のある人間は素晴らしい。自分の手で物を創り出すことができて、しかもそれが収入につながるのだから。Java、アスキーのツクールシリーズ、そしてFlash・・あらゆるものに挑戦してみて、簡単なものなら作れるようになった。
しかしこれらを芸術の域、いや、そこまでは望まなくとも、他人に見せられる域にすら達することができない。学校の勉強やサイトの更新の合間に暇を見つけては少しずつ練習しているのだが、微々たるものである。教員になったらもっと忙しくなるので練習時間が減るだろうし。精神と時の部屋みたいな場所があれば、そこで好きなだけ勉強できるのに・・


1月10日(金)

変はいつだって唐突だ。

恋じゃなくて、変。別にクリスマスの時に『全ての人に辛いあれ・・・あ、書き間違えました』とさりげなく誤字を装って毒を吐くネタとは違う(実際に昔やったことのあるネタだが)。
体力が切れかかっていたり、精神的に参っているときとかに、突然頭がおかしくなることはないだろうか?
降りるはずの駅をウッカリ降り過ごしてしまったり、買い物の時におつりだけもらって商品をもらい忘れたり、喫茶店でコーヒーに砂糖を入れるとき、砂糖のスプーンでコーヒーをかき混ぜてしまったり・・(すべて経験有り)

またやってしまいました。しかも塾の授業中。高校生に数列の漸化式を教えていて、センター程度の問題で凍ってしまった。
「・・と、このパターンはここに注意すれば良いんだよね。すると、ほら、この型に変形できるから・・・・・・あれ?」
途中まで普通にやっていたのが、突然止まってしまった。頭から特性方程式の計算がすっぽり抜け落ちてしまったのである。類型を直前にやったばかりなので、忘れてしまったわけではない。が、そのときは頭が真っ白になって全く思い出せなかったのである。
気が置けない間柄の生徒なので、「ごめん、僕の頭がフリーズした。トイレ休憩2分入れよう」という反則技で仕切り直しをしたが、本当にあの時は焦った(当然、椅子に座って落ち着いたらすぐに思い出せた)。
そういえば、ある朝起きたら、突然ネクタイの締め方を手が忘れていて困ったこともあった。アルツハイマーだったら嫌だなぁ。


1月9日(木)

日本で人気の三国志。また、同様に忠臣蔵というメガヒット作品もある。では、どっちがメジャーかな・・と考えていて、ふと気づいたことがある。
三国志は色々な媒体で流布されている。しかし、忠臣蔵はさほどでもないのではないか。せいぜい小説とドラマくらいである。忠臣蔵を題材にしたテレビゲームは聞いたことがないし、子ども向けの絵本も見たことがない。これは何故か?

思うに、「目的達成の有無」ではないだろうか。三国志や戦国時代物は1人の天下人の影に、多数の夢破れた者がいる。目的を達成できずに散っていった者は、後世の人々に感動を与える。だからこそ、歴史シミュレーションというジャンルが存在できるのであろう。例えば劉備になって曹操に対抗する。ゲームの楽しみ方の1つである。また、「if物語」という負け犬の遠吠えができるのである。「諸葛亮さえ死ななければ・・」「曹操を華容で見逃さなければ・・」という具合の夢想を楽しむというやり方である。
最近は変化しつつあるが、一般に人気がある蜀・新撰組・真田はどちらも負け組である。

それに対し、忠臣蔵は目的が達成されてしまっている。物語が全て完結してしまっているのである。だから、過去の事実をトレースできても、そこから発展させることができない。作家にしても、if物語が作りづらいのではないか。もっとも、
「吉良家に討ち入った赤穂浪士が返り討ちにあって全滅 おしまい」
というifストーリーはおそらく一般受けしないと思う(吉良の地元では好評かもしれないが・・)。
これが忠臣蔵が固定ファンはいても、拡張がしづらい原因ではなかろうか。


1月8日(水)

講習が終わったので、やっとその他のことにメモリを割くことができるようになりました。スペックの低い脳なので仕方ありません。1週間遅れましたが、新年の抱負でも述べたいと思います。

そもそも、三国志サイトとはなんなのでしょう。ホームページにも書いてありますが、三国志には色々な意味があります。歴史としての三国志を指す場合。三国志演義を指す場合(吉川三国志という近似値を代入しても良い)。ゲームの三国志を指す場合。このサイト「蜀人気質」はどれをターゲットにしているのでしょう?
また、むかし見た出来事。歴史学を専攻している肇建氏(仮名)が、多数存在する三国志ファンサイトを「あのレベルの低さはなんなのだ」と酷評しました。そのとき、因余氏(仮名)は「素人の趣味ページなんてそんなものだ」と受けました。因余氏の発言は事実です。専門家から見れば、素人のレベルは下の下の下です。
肇建氏は何故、専門家でありながら素人を見下すのか。知識の力の違いは当然(むしろ負けるほうが問題)であるのに。中学生が小学生相手に知識の質や量を自慢しているようなものなのに。僕は三国志の知識の多い少ないということで他人(例えば初心者)をあざけり、排除する人間にはなりたくありません。他分野も含めた全てを受け入れる、器の大きな研究者に憧れます。

しかし僕には歴史学者のスキルはなく、真面目な歴史考察は素直に餅屋に任せたいと考えています。ではこのサイトは何をするのでしょう。

蜀人気質は、正史も演義もサブカルも全て含めた三国志を考察するサイトでありたい(ただし蜀中心)。くだらないアホな考察(というか、それを人はネタと呼ぶ)も真面目に考えれば考察には違いありません。屁理屈も理屈のうちです。暇があれば、東洋史学会などの論文にも目を通して歴史学としての三国志を追いたいですが、いかんせん時間が足りません。40年経って定年を迎えたら、大学図書館に通って研究をする楽しい老後を送りたいものです。

"三国志を、まじめに馬鹿っぽく考察する"サイト、蜀人気質を今年も宜しくお願いします。


1月4日〜7日

地獄の冬期講習後半がスタート。全ての授業に全力を出すと、途中で声とか体が持たなくなるので、計算テストの間は椅子に座るなどして体力の温存に務める。
それでも最終日の夜のコマはヘロヘロになってしまい、生徒に「座って授業したほうがいいんじゃない?」と心配されてしまった。生徒に自分のことを心配されるようでは教師としては駄目である。どんな状況でも平静を保ち、喜怒哀楽を出さないのが理想なのに、疲れだけは表に出てしまうようである。


1月1日〜3日

栃木に帰っていました。栃木に降る雪は、東京に降る雪と比べて質の良い雪なので、見ていてとても心が和みます。

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