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6月29日(火) 都電に乗っていてカーブにさしかかったとき、車体がガタンと揺れ、隣にいた老婆がバランスを崩した。危機を察知した僕はスッと老婆の前にからだを進め、彼女の転倒を防ぐことができた。 「ありがとうね、坊や」 坊や…ですか? 仮にも今年で27になるのに。四捨五入したら30ですよ。 まあ、年配の人から見れば10代も20代も30代も大して変わらないのかもしれないけれど、ちょっとショックだった水無月の日。 6月28日(月) 気付いたら1月放置してしまっていた。毎日に追われると、月日がたつのは速いもので。 最近気付いた三国志ネタ。 英語圏の人の三国志サイトを見ていたら、蜀の五虎将軍の紹介文がこう書いてあった。 うしろの方に注目。 ”known as the five tiger generals” そのまんま だ。 5月18日(火) 現代は合理主義の時代といわれるらしい(思想史では近代合理主義と呼ぶとかそうでないとか)。 では日常における合理主義といえば何だろう? 無駄を省き、事象を数字化・記号化したもの。それはディジタル機器ではないか。外を歩けば携帯電話にあたり、自宅に帰れば自動でご飯を炊いてくれる炊飯ジャーや、開けっ放しにしているとブザーがなる冷蔵庫など、マイコンを搭載した家電製品が出迎える。仕事に就きたくてもパソコンやメールアドレスを持たなければ就活すらできない。まさにディジタル文化こそ近代合理主義の産物にふさわしい。ディジタル文化に対応する教育として、情報教育(話を大きくすると面倒なので、今回はパソコン教育関連に限定)が進められている。 教育の役割には大きく2つあると思う。1つは産まれたままの動物であるヒトを理性的な人間に導くという役割。最近の流行である「こころの教育」に代表される、いわゆる心身の発達というもの。もう1つは子どもがその世界で生きていくために社会的に望ましい姿に変化させるよう働きかける役割である。後者は社会と結びついているため、体制よりになるのは否めない。「象徴暴力」「管理教育」と揶揄して批判する者も多い。しかし、社会に生きる以上、教育に社会的要素が含まれるのは必然であり、どちらも重要な要素ではないかと思う。近代合理主義を徹底して己の欲望や効率のみを追い求めることを理想の教育と呼べないのならば、その逆に、人間性のみを追及して近代合理主義を否定することもまた教育とは呼べないはずである。 近代に限らず、歴史を振り返れば必ず反動というものが起こっている。日本に限って言えば、明治時代になって西洋の文明が入ってくると江戸までの文化は否定されて廃仏稀釈運動が起こった。太平洋戦争で負ければ戦前の思想文化は悪というイメージを植えつけられ、道徳教育がタブー視された。詰め込み教育が批判されれば過度なゆとり教育に転換し、それが批判されれば再び翻すという価値観の振り子運動も記憶に新しい。最近に頻繁に叫ばれている「こころの教育」というのも、単に近代合理主義の台頭へのアンチテーゼに過ぎない可能性もある。教育というものの定義から考えれば、人間性と社会性は共存するべきものであって、どちらか一方を優先するものではないし、ましてや他方を否定するものではない。コンピューターのデメリットを補完するためのこころの教育は望ましいものであるが、コンピューターを否定するためのこころの教育には賛成できない。否定は否定を生むだけで、いつまでたっても解決することができないからである。 パソコンは、ただの道具。生かすも、殺すも、殺されるも使い手次第である。 5月16日(日) またまたリアル(?)な夢を見た。
目が覚める。PCをつけてみる。ノーマルモードをプレイしてみる。夢の中でした操作を試してみる。 冥符「紅色の冥界」が取れた! 調子に乗って妖々夢をプレイしたところ、1回も取れなかった「四面楚歌チャーミング」「飯綱権現降臨」の取得に成功。 これがいわゆる「”神が降りた”というものなのだろうか?? 5月13日(木) 坂本龍一氏は音質が悪いという理由でCCCDに反対している(もちろん、「こうなったのも元はといえばコピーをする悪者がいるからだ」というスタンスだが)。かつ、著作権法改定による輸入CD規制に反対している。 音楽関係者であり、知名度も抜群である坂本龍一氏らが著作権法改定に反対する(そのものの否定ではないが、部分的とはいえ、反対すること自体にインパクトがある)声明文がマスコミを通じて大々的に放送されたら、お茶の間の大衆は著作権に対して何を思ったであろうか? その前日、Winnyの作者が著作権法違反幇助という罪(?)で逮捕されてしまっていた。ニュースや新聞はこぞって容疑者のことやWinnyのことをとりあげ、著作権法に違反することの非を説いていた。ネット上でもZAKZAKは悪意のこもった感情的な書き方をしていたようだ(まあ、法律に違反することは確かに罪なので、仕方ないといえば仕方ない。悪法も法なりという考え方ですね)。 PCに疎い人から見れば、ネット世界は即ちオタクの世界であり悪の世界と認識されている。そんな人々がWinny報道を見ても「著作権に違反したオタクが逮捕」という程度の認識しかもたないであろう。一方、彼らの中では文化人(=良い人種)と認識されている坂本氏が著作権改定に異議を唱えているのを聞けばどう思うか。著作権のあり方について考え直す人だって現れる可能性がある。ただ、インターネットが普及したといっても、統計から考えればネットのニュースよりもテレビや新聞のほうを見ている人の方が多い。彼らの声明文はネットのみでなく、地上波で流されないと大衆を動かす力にはなりえない。ネット世界の祭ではなく、現実世界で数万人を喚起するにはやはりテレビ・新聞の力が必要になる。 陰謀史観はあまり好きではないのだが、もしWinny作者逮捕が坂本龍一氏の発表よりも後で、声明文がメディアを通じて広くお茶の間に宣伝されていたら著作権法改定の流れはどうなっていただろうか? どうしてよりにもよって、声明文の前日に逮捕されてしまったのか! この日を狙って逮捕したのか?とでも言いたくなる。 今回の発表と逮捕のタイミングには思わず「天の時を逸したか!」と、嘆息せざるをえない。 5月12日(水) あっと気付いたら4月が終わっていた。「今年は勉強に専念したいので、業務を入れるのは週2日くらいにしてくれると嬉しいのですが…」とバイト先に頼んでOKをもらったものの、「講師が足りない」とか「新人研修がある」とか「会社のPCが壊れたから修理」とかで、結局、週のうち半分は帰宅が深夜2時。いつ自分の勉強をすればいいのか?(言い訳) やるべき理想と多忙な現実の狭間に揺れているせいか、最近は現実とも虚構とも取れないリアルな夢ばかり見る(日常生活に近すぎて、目覚めてもそれが夢なのか、昨日の記憶なのか迷うことがあるくらい)。 例えば・・
ここで目が覚めた。あまりに日常のやり取り過ぎて夢と現実の区別がつかない(実際、僕は家族とよくこの手の談義を茶を飲みながらするため)。 |