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10月2日(土) 最近、小学校の関係者と話をしていて印象に残った話を2つ。 ・都内の某小学校には、生活保護の家庭が80%近くを占めるクラスがある。 ・都内の某小学校では離婚等の事情で、児童の片親率が15%を超えている。 伝聞なので若干の誇張が入っているのかもしれないが、割り引いて考えたとしても驚愕の値である。 これまで当たり前と思われてきた教育政策が通用しなくなる日は近いだろうな。これまで自身のことを裕福だとかエリートだとか、そういう見方では括ってこなかった僕ではあるが、今回ばかりは痛切に思った。少なくとも家に帰れば家族がいて、大学に通えて、バイトが出来て、こんな時間にインターネットができる(ちなみに土曜の朝6時に書いてます)人間は、途方もなく贅沢者の部類に入っているのだろうな、と。 かつて日本人は一億総中流思想と言われた(それも作られた幻想のような気がするが)が、現代日本では既に階級化が始まっていることを再認識した。 9月18日(土) 巷では (゚∀゚)ラヴィ!! というものが流行っているとかいないとかいう話を目にしたので、早速聞いてみたところ、見事にはまる。頭にこびりついてメロディが離れない… そこで、妹 僕 「最近、『ラヴィ』というものが流行っているらしい」 曲ばかり聞いていて、肝心のゲームタイトルを忘れていた。 僕 「・・・確か、『俺のために死ね』みたいなタイトルだったような気がする」 後で調べてわかったこと。「きみのためなら死ねる」だった。似ているといえば似ているが、微妙に方向性を間違えた… 9月12日(日) 土曜の朝4:30に起床して準備をして科学未来館に行く。昼過ぎに塾講師のバイトのため、地元に戻る。 気付いたら日曜の朝4:00。 伊比 「あれ、もう4時ですね。起きてから12時間なのに、この時間だとさすがに目が重くなってきましたよ」 少しして気付く。あ、起きてから12時間じゃない。24時間だ。 この前も「夏休みの1ヵ月半」を表現するのに、30日×1.5=45日間と書くところを、60日×1.5=90日と書いてしまうし…(生徒に指摘されて気付いた) 9月11日(土) 先生の研究のお手伝いとして科学未来館に行く。無料招待券…いい響きだ(貧乏性)。 展示内容として個人的に興味を引かれたのは、 先生に簡単に科学未来館を案内してもらった後、奥の研究棟に移動。「関係者以外立ち入り禁止」のドアを越える…いい響きだ(小市民)。 「別に3Dじゃなくてもできる」ことではなく、「3Dでないとできない」教材って何だろう。 9月5日(日) ボーリングとボウリング。 ボーリンクとは、地質調査のときに地面に杭を打ち込むあれのこと。 ボウリングとは穴の開いた重い玉を転がしてピンを倒すあれのこと。 ・・・と区別して使っていたのだが、今は(昔からなのか?)どちらも「ボーリング」でいいらしい。東京書籍の中学理科の教科書に等速直線運動の例として「ボーリング」と書いてあったので、すわ誤植発見かと思って字引を調べてみると、ボウリングの項にカッコ付でボーリングと書いてあった。 ディズニーランドをデズニーと発音すると笑われるのに、ディジタルカメラを平気でデジカメという世間。ボーリングとボウリングは区別されていたのに、どちらもボーリングでいいことになってしまっている世間。何だかなぁ。 8月21日(土) 子どものころ、まだ携帯電話なんて無かったという人向けの話。 当時は家庭電話が主役であり(まあ、現在でも機能面ではメインであろうが)、それは「家」の電話であった。僕にかかってくる電話も、妹にかかってくる電話も、両親にかかってくる電話も同じ電話で受けることになる。よって、自分が受話器に出た場合、自分の知らない相手を取り次がなければならない状況が生まれてくる。 対して、現代は子どもの頃から携帯電話を使う文化である。携帯電話が家庭電話と違う点は、かかってくる相手は自分の知り合いであり、知らない相手からかかってきたら無視すればよいということである(ワン切り等のトラブル対処も含めて)。そうすると、子どもが知らない相手と話す機会が無くなる。逆に、こちらから携帯電話で会話するとき「○○さんはいらっしゃいますか?」と切り出すこともまず無い。携帯電話では出る相手が固定されているので、いちいち確認する必要が無いわけだ。家庭電話に対して、こちらは「個」の電話といえよう。 「最近の若い者は誰に対してもタメ語」と嘆く者がいるが、タメ語というのはもともと自分と同グループ(と本人が認識している)の相手に使うものである。携帯電話しか使用していない子どもは、ウチのグループと会話するだけで、ソトのグループと会話することはない。自分たちのグループ以外の人と話す機会をあまり持たなかった人間が成長したら、タメ語以外の表現方法を知らない大人になるわけである。残念ながら、知らない言葉遣いを話せるわけがない。 では、対外用言葉遣いをどうすれば身につけられるか。以前は学校や家庭がその役割を担っていた。「家族への電話の取次ぎ」や「先生に対する言葉」があったので、子どもは「仲間うち言葉」と「対外的言葉」を自然に身につけられた。しかし最近はいわゆる「友達先生」が増えて、言葉遣いを気にしなくなったので、子どもが家庭や学校で対外的言葉遣いを学ぶことができなくなってしまった。まあ僕自身もあまり生徒の言葉遣いを気にしない先生の部類なので、偉そうなことはいえないが(笑)。 小中学生によるネット上の一般の掲示板への書き込みが物議を醸すことがあるが、彼らの大半は別に、大人に対してなれなれしい態度をとって挑発しようとしているわけではない。彼らにとって掲示板に書き込む行為は、友達にメールを送るのと同じレベルの行為であり、そこには「対外的言葉遣い」という発想そのものが無いからなのではないかと思う。 最後に、また1つ経験談を加えよう。教え子が高校生になって地元のマックでバイトを始めた。たまたま僕がその店に行って再会し、その子が客席までバーガーを持ってきたときに2,3言会話を交えたときのことである。 「大人向けの言葉なんてあったんですね。覚えるのが大変ですよ」←おそらく、接客訓練のことだと思われる。 言葉遣いは職業訓練でしか気付けない時代になったのだろうか。 8月16日(月) 金文京氏はその著作「三国志演義の世界」の中で、花関索伝を英雄叙事詩とし、神話・伝説系要素の強い作品だと述べられている。しかし、関索はいくら関羽の子どもだからといっても、どうしていきなり神格化した状態で現れたのだろうか。 一方、民俗学者の折口信夫は紀行文「海道の砂」の中で、旅先の九州で辻々に弘法大師の石像があるのを見て「田舎びとは、道祖神に詣づる様な心持ちで、大師を拝んでいるのだ。弘法大師の為に弑逆せられた古代の神々は、弘法の体を仮りて今の世になお生きているのだと考えた」という。 折口の話を見て、ふと関索とつながったような気がした。折口が「弘法大師に弑逆せられた古代の神々」というのは、もともと九州には土着の神々がいたのだが、弘法大師伝説にいつのまにかとって代わられてしまったということである(自然にそうなったのか、あるいは弘法大師の崇拝者が意図的に流布したのかは知らないが、本来は別の人の逸話が有名人の逸話としてすりかわってしまう話は結構あるようだ)。 ・・・と、思いついたことをメモ書き。 「花関索伝の研究」を最後に読んだのが1,2年前なので内容をかなり忘れてしまっているのだが、ひょっとしたら上のようなことは既に書かれているかもしれない。だとしたらこのネタを膨らませるわけにもいかないなぁ(汗)。 8月15日(日) 本日は名作同人弾幕ゲーム「東方永夜抄」の発売日ですね。が、私はコミケに行く暇も無く(あとで通販で買えばいいかなぁと甘い考え)、家族と食事に出かけるのでした。 池袋の「東方美食城」のランチバイキングに!←偶然( そこで知ったこと。客は日本人と中国人が雰囲気的に1:2くらいな感じだったのですが、食べ方が全く違う。というより、食べ方で日中を区別したくらいに違う。 中国方式だと往復する回数が少ない分時間的に得だが、食べ残したりすることにならないのかなぁ。最初から食べられる量を計算して運んでいるとも思えないし。 7月19日(月) せっかくの祝日なのに、午後から出社するハメに。 で、昼にご飯を食べながらふとテレビをつけてみたところ、面白い番組をやっていました。その名も「ヨコハマ買い出し紀行」。 どうも僕は「牧歌的」かつ「文明が適度に入っている」ような作品が好きなようです。自然と科学技術のいいとこ取りなんて、人間のエゴですね(汗)。 先日行ったカラオケで、ドテラマンとかおよねこぶーにゃんとかを聴いたので、懐かし系モードになっているのかも。 7月18日(日) 時は紀元前200年頃。西漢の都長安の宮殿に、斉から田氏一族が引っ越してくることになりました。 劉邦「はい、新入りを紹介します。田一族の皆さんです」 田氏A「斉から来た田Aです、よろしくお願いします」 田氏B「斉から来た田Bです、よろしくお願いします」 田氏C「斉から来た田C…(以下略)」 劉邦 「田氏は斉の王族ですが、漢の天下になったので、長安宮に引っ越してきました。 臣下達「(陛下にいじめられなければいいけど…)」 −−−数日後−−− 劉敬「なあ、第一」 田氏A「第一? は? 私?」 劉敬「そ、あんたあだ名『第一』。みんな苗字が『田』でわかりづらいから」 田氏A「そんな安直な!」 劉敬「みんなわかったー!? 今日からこの田Aさんは第一よ!! そしてこっちは第二、第三、(以下略)」 田氏達「ふえ〜」 ・・・劇終 没個性の極みたる姓を名乗るハメになった彼らの心境はいかなるものであっただろうか。 7月14日(火) この夏、自分にとって興味のあるゲームが発売される。 1つはRPGツクールXPであり、もう1つは高校野球道3である。この2つはどちらもインターネットにつながる環境でないとプレイできない。セットアップやバージョンアップに認証が必要なためである。最初からネット対戦やネット配布をすることをユーザーが第一に考えていると捉えてそういう形式にしたのだろう(不正コピー対策の可能性の方が高いかも)。 まあ永夜抄も期待はしているが、すでに鷹符「イルスタードダイブ」+BGM「もう歌しか聞こえない」のコンボで精神的に充足してしまった(体験版で満足しきってどうする)。 7月9日(金) かつてフランスに旅行に行ったとき、旅先に部活の後輩がいたことがある。パリのラーメン屋に。どうしてこんなところにいますか? エッフェル塔や凱旋門ならともかく、ラーメン屋(笑)。 そして今日、サークルの新入生が、実は3年前に一度会っていた人であるということが判明した。世の中は狭いなぁ(単純に、高校の部活の後輩が大学に進み、三国研に来たというだけなんですが)。 そして、さらに驚いたことが。 7月7日(水) 読売新聞を読んでいてふと思った。 「三菱の車が炎上」 最近、この手の記事を良く見る。別に欠陥隠しが発覚したからといって火災が発生しやすくなるわけでもないのに、欠陥隠しが発覚してからしょっちゅう三菱の車が燃えているような印象がある。が、これには裏がある。記事によると、車の火災事故というのは年間1万件近く起こるそうだ。ということは、1日に平均すれば、約30件ということになる。三菱のシェアを考えれば、確率的に三菱の車は確実に毎日どこかで燃えている計算になる。別に三菱に限らず、日本のどこかで30台の車が燃えているわけだ。 もちろん、欠陥を隠したのは良くないことである。が、この報道の仕方は明らかに性質が悪いと思う。所沢のダイオキシン報道のように、三菱はメディアによる風評被害を訴えても構わないのではないだろうか(少なくとも、欠陥が原因以外の炎上事故を必要以上に煽り立てる報道に関しては)。 誰かが悪いことをしていたということが発覚すると、それに関連する全てのものも悪いものであるとする風潮が相変わらず根強いようだ。 |